夜空の古代史 ancient   系図のページに年代  夜空のページに注釈

禁書が残っていても、そちらの正義であって真実とは証明できません。 見聞録も思い違いや、嘘の情報を聞いている方が確立は高いと思えます。だから神に頼っていた当時の一人一人の人となりを、背景からイメージをぼんやりと想像しては、また変えて、また想像して、背景と行動に整合性があるように、背景と歴史の流れを想像しました。私の古代史は文献からヒントを得ていますが、イメージを膨らますことが主でありましたから、根拠となる文献が無いのはその為です。
たぶん、文献をコンピューター(のような)で精査解析しても不可能だと思います。コンピューターは、人が嘘で書いたか、嘘の伝聞を信じて書いたか、見たけれど誤認して書いたか、が判断できないからです。人工知能が心理学を学んで嘘を吐けるようになると可能になるのかもしれません。 

作為の下に埋もれた人々の口惜しさを解きたいと思い、提案して見ます。

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それぞれの人物背景は"夜空be quiet"のページへ記載し、系図を"系図ancestry"のページに載せています。

BC660年頃
秦系(ヘブライ)の天御中主命とされた人物が宇佐に来たのを神武天皇即位の日とした
BC210年頃
徐福が九州に来て秦系(ヘブライ)と遭遇し、秦へ戻り始皇帝へ報告し、戦力を整えて再度九州へ上陸し秦国を立てる
57年頃
魏に対して奴国が主要国
100年~190年頃
倭国大乱
190年頃
卑弥呼を共立しヤマト連合を立てる
210年頃
沖縄伊是名島のイザナギとその妹でオナリ神のイザナミが鹿児島に入る。イザナミは後の天照大神(日霊女、向津姫)を産む。イザナミは220年頃に開聞岳の噴火で亡くなったので大日霊女貴命と言われる。マグマは太陽の欠片であり、日神が火神を産んだ。火明命は日神の子。
220年頃
再度卑弥呼を共立して近畿を含む邪馬台国(ヤマト大国)を立て、大和(畿内)が中心となる
230年頃
日矛が山陰伝いに近江辺りに来て、遠戚の秦を頼り住みましたが、先住のクナト系民に祖国秦の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許された。(因幡の白兎)
240年頃
イザナミの子の天照大神(日霊女)は九州の五部族(幣立神宮の五色面)の長の秦(ヘブライ系)の猿田彦と結婚。猿田彦の妹に磐長姫がいる。磐長姫は瓊瓊杵尊に振られたのではなく、猿田彦を遣った瓊瓊杵尊を拒んだ。
日霊女は市杵島姫、多紀理姫、玉依姫を産む、三女ともシャーマンの素質があり、当時はシャーマン一人に付一国ある位シャーマンの言葉で政事(まつりごと)をしたので、260年頃、市杵島姫は大和の饒速日の妃に、多紀理姫は丹波の大国主(大己貴)の妃に、玉依姫は鵜茅不合尊の妃に行った。
卑弥呼の時代の出雲の大国主は孝昭天皇で、大国主の妻は世襲足姫(須世理姫)。 出雲の大国主はヤマト連合帰順の証しとして世襲足姫や沼河姫と結婚する。 又世襲足姫は尾張で出雲の大国主とは別男との間に武御名方を産んでいて、武御名方は海神の娘と結婚し、元々信濃なので出雲には口出ししないと約束する(伊勢の科戸の風と科野の繋がり)。又子孫は春日に住み、神武東征の折、子孫の武甕槌󠄀が神武を受入れに同意した。
248年頃
卑弥呼が亡くなったので、出雲はヤマトとクナトの共存の地であったが、ヤマト系の出雲の王が、吉備から入って来たクナト系のスサノオに攻められる。スサノオが男王となる。
ちなみに草薙剣は刃の部分が草を刈り込むように内反りの方に付いている剣、十握剣は十本の剣と思います。
250年頃
スサノオ(孝元天皇)が台与(大市姫)と結婚し台与が女王となる。市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味。
250年頃
瓊瓊杵尊勢力が久留米へ侵攻し、海幸彦が遣られ、身籠っていた豊玉姫は山幸彦の妻となり、産屋が間に合わなかった。
瓊瓊杵尊勢力が高千穂へ侵攻し、鈿女を使って猿田彦をだまし、体をナマコにして四方に埋めた。鈿女の子孫の猿女にナマコだけ従わないのはこの事。「見ざる聞かざる言わざる」、猿女が鎮魂の儀礼の役になる。
猿田彦が亡くなり九州連合の力が弱まり、瀬戸内の秦勢力が弱まる。
270年頃
饒速日が畿内の主要勢力に成る
畿内を取れなかった出石系大綜麻杵の孫の彦太忍信(伊迦賀色許売と孝元天皇(スサノオ)の子という偽証で)が紀伊の名草戸畔を遣り、紀伊を取る。
280年頃
秦勢力が弱まったので、吉備が台頭し饒速日が遣られる。次いで市杵島姫亡くなる。
饒速日の母は秦系の大市姫(台与)で、父はスサノオ(孝元天皇)で、スサノオの母は辛国息長大目(赤留姫)で父は磯城県主(アコタヌシ)大目でクナト系でアラハバキ神系。(台与は伊勢の天照大神)
吉備は考安天皇の流れの三系統でクナト系(倭迹迹日百襲)、秦系(彦狭島)、新羅系(吉備津彦)が居り、考安天皇の父は卑弥呼の時代の出雲の大国主(孝昭天皇)。
神武は叔母の市杵島姫が亡くなり畿内に吉備が台頭して来たので、仇討を兼ね東征する。その為神武の曾祖母か祖母の日霊女(畿内の天照大神)の神霊を守り神として群行する。宇佐に依り市杵島姫の父方秦の協力を得、秦の太玉命と東征し、広島で市杵島姫を弔い、新羅系吉備族を討伐し、岡山でも新羅系吉備族を討伐した。尚、秦系の太玉命は神武東征後、太秦、徳島、千葉、筑波等貰う。
300年頃
神武は大和に入った時、敵と見なされ、攻撃を受けたので大和と仲の良くない南紀(隼人山祇=熊野山祇=クナト山祇)から入る。紀南から入ったのは、紀南はたぶん山祇系であり、山祇系の木花咲夜姫との縁で河内から紀南の協力を得るために紀南から入ったと思います。 途中、名草戸畔を遣った事に成っていますが、戦力が落ちているのに、紀南へ行く途中で、わざわざ名草戸畔を遣る動機がありません。
その頃大和は宇摩志麻遲が主王で、長脛彦が副王であり、宇摩志麻遲の父は丹波国多紀郡の大国主(大己貴)で、母は日霊女と猿田彦との娘の多紀理姫であり、大己貴と結婚して菊理姫と言われる。宇摩志麻遲の妹は下照姫で葛城の太陽神で台与の次代をしていたシャーマンで、兄の味鋤高彦根は一言主とも言われ神武と宇摩志麻遲と下照姫の仲裁役をして後に八咫烏とされた。仲裁内容は「クナトとヤマトと竜王と秦の血を引く伊須気依姫の婿に入る条件で神武を受入れた。
大和朝廷成立
崇神天皇(神武)が邪馬台国時の大己貴(陸耳御笠)と多紀理姫(菊理姫、匹女)討伐命令を出す。丹波大国主(大己貴)は陸耳御笠とされ、妻の多紀理姫は菊理姫ともいい優れたシャーマンでヘブライ秦系です。後に匹女とされ、夫婦共、大江山の鬼とされた(山窩にも信奉されるの菊理姫)、そして菊理姫は科野を頼り、科戸の尾張へ逃げたのではないか(味美二子山古墳)、そして葛城の太陽神である下照姫は、名草戸部亡き後の名草郡を任された紀伊国造名草彦の妻名草姫となる。【草の主は菊の異称】(草や繁木は人混みの意で使われたと思う)そして、宇摩志麻遲は崇神の下に軟禁され鎮魂の法を奉斎、味鋤高彦根は高知に隠居、日子坐王は陸耳御笠を討伐に行ったとされているが、従わないので殺されている。

330年頃
景行天皇が豊後の猿田彦末裔の打猿討伐
350年頃
倭建命が熊襲討伐失敗
370年頃
仲哀天皇が熊襲討伐の為神功皇后に協力要請するが拒否されて失敗
神功皇后は九州連合隠起
390年頃
神功皇后は娑竭羅竜王との子の応神天皇を仲哀天皇の子として畿内に進出
応神天皇の妹の八幡は優れたシャーマンで名を轟かす。八幡の妹の頗梨采女と牛頭天皇の子が八王子いて、強靭で蘇民将来伝説で応神天皇批判が出ないよう大和一帯を抑え込む。
出石系伊迦賀色許売後裔勢力は神功皇后勢力と協力して再び紀国を奪い取ったので、270年頃の名草戸畔殺害の所業を300年頃の 神武の所業とし、祖先の罪を消した ものと思います。

仁徳天皇は、九州王朝の力と、庶民が貧しく低賃金で使えたので大古墳を造れた。


筑紫王朝又は九州王朝と大和王朝
神武東征時は筑紫と大和は一つに成ったが、
かつて猿田彦が居た豊後で大和朝廷に帰順しない者達が増え、景行天皇が征討したが、落人が肥後に逃走
肥後で反抗勢力が起こり、ヤマトタケルが征討に行くが失敗
再度仲哀天皇が肥後征討に行くが神功皇后の協力を得られず失敗。神功皇后は九州王朝成立に向けて裏で動く。
5世紀末~6世紀始めにかけて百済の弱体と共に大和朝廷弱体期に近江毛野の新羅攻めを阻止するために磐井の乱が起きる
毛野の祖の神武天皇と筑紫は懇親の仲だったが、今では九州王朝派になり、今までの大和朝廷の筑紫攻めは許せず、又、以前神功皇后と応神天皇の中央進出の後ろ盾をした熊襲と新羅は、九州王朝を確固たるものにしようと、大和朝廷の交易切り離しを計った。

海幸(海洋民族)、山幸(内陸民族)、クナト、ケルト、エジプト
12000年前鹿児島の丸ノミ型石斧、 6000年前丹後半島の丸木舟、 7500年前千葉市川の刳り船、 等、 刳り船を外洋から来た船としたら、同じように北海道から沖縄まで刺青の風習があるので海洋民族も日本全土に移入したと思いたい。 ポリネシアのカヌーに乗る漁民は「日本は近いよ、簡単に行けるよ」と言う
他、北方からの移入者(クナト、アラハバキ神)
中国は刺青の風習は無く、刑罰に使う為、海洋民族ではない
刺青の風習の有る雲南省、呉、越、朝鮮南部、等は海洋民族の流れ
 雲南省は中国の流れではなく、海洋民族が雲南省まで移入してきた
 「倭人は呉の太伯の末裔」は、中国からはそう見えるが、海洋民族からは呉は同族
随時東南アジア各地から海路にて移入
BC7世紀に刺青の風習のないヘブライ系秦が移入
 内陸民族とは違い、エジプト、ケルトの民(星辰信仰、巨石信仰)
BC3世紀に刺青の風習のない秦(徐福)が移入
 ヘブライ系と内陸民族の混成
AD3世紀に刺青の風習のない騎馬民族が移入
 内陸民族(山幸)
AD4世紀始め伊須気依姫が大久米命の刺青に驚く
 大和では刺青の風習は無くなっている
AD5世紀始め安曇連浜子に刺青刑
 大和では罪人に刺青を入れる