敗戦~独立の時系列 Bridge over troubled water

敗戦~独立(講和)までの時系列 
国の有りようが分る
プレスコード、左傾化、反国旗掲揚など占領政策から引用している事が見える
それらの 流れー対応―結果、が分る

1945年8月14日のポツダム宣言受諾により、
当初、マッカーサーは日本占領に当たって次のような指令を受けていた。
「我々と日本との関係は契約に基づくものではなく無条件降伏によるものである、日本側が疑義を挿むことを許してはならない。」
しかしポツダム宣言が日本政府の存続を認めていたことから、ワシントンでは8月22日の時点で直接占領の方式を捨てていた。
それを受けてマッカーサーは関節占領の方針を取る事にした。
この為、日本国民に告げられる筈だった軍政に基づく布告第一号は幻となった。

その削除された布告第一号の一部要約は
日本帝国政府の連合国軍に対する無条件降伏により武力紛争は終局した。
戦勝国は本日を以て日本国の領土を占領した。
日本国全領域並び全住民に対し軍事管理を設定し、左記の占領条件を布告する。
行政、司法、立法の三権を含む政府の一切の権限は本官の権力下に行使される。
等々。

1945年8月17日東久邇宮内閣成立
皇族が組閣する事に成ったのは、報復及び占領に対し軍の抵抗を抑える配慮だった。

1945年8月30日連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー来日

1945年9月2日東京湾ミズリー号で降伏文書調印式
「我々は主要交戦国を代表して平和を回復する為の厳粛なる協定に調印すべく本日ここに集まった。」
「日本帝国陸海軍が受け入れるべき降伏の条項ならびに条件は諸君の目の前の文書にすべて記載されている。」
「日本国天皇、政府、大本営の代表である諸君は降伏文書の所定の箇所に調印されたい。」
天皇、政府を代表して重光外務大臣、陸海軍を代表して梅津大本営参謀総長が署名。
連合国軍を代表してマッカーサーが署名に5本のペンを使った。
最初の一本はバターン半島で日本軍に降伏した元マッカーサー部下のウェインライト将軍に、
二本目はシンガポールで日本軍に降伏したイギリス軍のパーシバル将軍に送られた。
残りはアメリカ国立公文書館とウエストポイント陸軍士官学校に、もう一本は自らの手元に置いた。
連合国側のアメリカ、中国(中華民国)、イギリス、ソ連、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの9か国が署名。
ここで日本は敗戦、降伏という事態を世界に認めた。

世界史を見ると敗れた国は国土を植民地にされ住民は奴隷扱いされる。
しかし連合国の占領は非軍事化と民主化が目的であり、非軍事化までは過去の歴史の常であるが、日本占領においては基本的人権を尊重して民主国家を作る事が目的とされた。
占領の統治形態は日本政府の存続が認められ、形式上は日本政府を介して間接統治されることに成った。

1945年9月2日降伏文書調印式時点で、日本の現有兵力は698万3千人で、この内本土だけでも257万人の兵力があった。

1945年9月15日マッカーサーは連合国軍総司令部GHQを置いた。

1945年9月17日
重光外務大臣がGHQに拒否され、吉田茂が外務大臣になる。

1945年9月27日
陛下がマッカーサーに会う為にGHQに行った時、マッカーサーは天皇が命乞いをするためにやって来ると思っていたから応接間で待っていた。
陛下は「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」
「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」
陛下が帰る時、マッカーサーは玄関まで出て来て陛下を最敬礼で見送った。

1945年10月4日
GHQは政治犯の即時釈放、思想警察、特攻の廃止などを盛り込んだ政治、宗教、民権の自由に関する覚書を発表した。
この指令は到底実行できないと、東久邇宮内閣は総辞職、10月9日に後を受けた幣原内閣はGHQの意向にそって10月10日政治犯を釈放した。その数は徳田玉一、志賀義雄などの日本共産党員16人を含めおよそ3千人にのぼった。

1945年10月11日
GHQは女性解放、労働組合の奨励、経済の民主化、政治の民主化、教育の民主化、の五大改革を指示した。

1945年10月16日マッカーサーは世界へ声明
「斯かる大部隊の解体がかくも敏速に、しかも何らの摩擦無しに行われたことは今まで無かった、歴史の記録に比類ない極めて困難でしかも危険な仕事が、一発の銃声も必要とせず、一滴の流血も見ないで行われた。」
巨大な兵力を残したままの軍隊を史上例を見ない程スムーズに解体することが出来た裏にはこの天皇の存在があった。

マッカーサーは日本の民主化に取り組んだが、武装解除の様にスムーズにはいかなかった。
そこで、プレスコード(ラジオコード)を日本政府に指令、これにより、新聞、ラジオ放送がGHQの事前検閲を受けるようになった。

GHQからの指示は1945年末までに500件以上に上った。農地改革もその一つ。
それらは指示、指令、声明、覚書と様々な方法で行ったが如何なる言葉を使おうとも命令に等しかった。
しかし幣原内閣は食料対策や悪性インフレを抑える事に没頭せざることに負えず、民主化政策を推し進めるまでに至らなかった。

1945年10月13日
マッカーサーは元首相の近衛に憲法改正に向けてリーダーシップを取る様に仕向ける、近衛は新憲法起草を準備しようとしたが戦争責任を問われ、戦犯の指定を受け1945年12月16日服毒自殺する。
日本政府は新憲法起草には法律の一部を改正するだけでGHQの意向に沿えると楽観視していた。

マッカーサーには憲法改正を急ぐ大きな理由があった。
1945年12月16日モスクワでの米英ソ外相会談は対日政策の最高機関として極東委員会をワシントンに設置する事を決定。
さらにGHQの諮問機関として対日理事会を東京に置くことに成った。
モスクワでの決定はソ連が対日政策に介入する事を意味していた。
極東委員会の設置は1946年2月26日に迫っていた。

1946年年頭、天皇は自分は神ではないと宣言する。
1946年2月19日天皇国内巡幸開始。
占領政策を実行する上で天皇制は有効であるとアメリカが判断したのに対し、英ソから天皇の戦争責任を問う動きが起こった。
マッカーサーとしては極東委員会が発足される前に既成事実を作っておく必要に迫られていた。
その既成事実とは憲法改正であり、天皇制を存続させることであった。
そうした中で天皇国内巡幸は国民に安ど感を与え、民主化政策や憲法改正に大きな役割を果たした。

1946年2月1日
政府は松本国務大臣を中心に憲法問題調査委員会を設置、憲法草案を提出。
その松本草案は天皇に大権を付与したもので明治憲法の焼き直しに過ぎなかった。
マッカーサーは松本草案を拒否、GHQの民政局に憲法草案を起草させた。

1946年2月10日にマッカーサー草案が完成
マッカーサー改憲の三原則(マッカーサーノート)
1、天皇は国家元首の地位
2、戦争放棄、非武装
3、封建制度の廃止

1946年2月13日マッカーサー草案は日本側に示された。
幣原内閣は愕然たる思いで立ち尽くした。
天皇はこれで良いという言葉で決着を産み、修正が加えられ日本国政府の草案として国民に示される。

1946年3月6日政府は憲法改正政府草案を発表した。

1946年4月5日第一回対日理事会、米英ソ中(中華民国)で開催
マッカーサーの演説
日本国憲法に掲げられた戦争放棄の提案を真剣に検討されるよう全世界の人々に勧めたい。
これこそ世界が進むべき唯一の道である。
これにより英ソの介入を退け、マッカーサーは主導権を維持した。

1946年4月10日戦後初の総選挙
全国の投票率78%、女性は67%が投票、初めて婦人代議士が39人も誕生した。
鳩山一郎率いる自由党が第一党となり、鳩山は社会党の閣外協力による単独政権を主張していたが、GHQは5月3日鳩山を奉職追放にした。

1946年5月1日11年ぶりに戦後初のメーデー(労働組合祭)が復活
食糧難と激しいインフレに苦しめられていた。

1946年5月3日東京裁判開廷2年半続く。

1946年5月19日食料メーデー 
共産党などに指導された食料メーデーが各地で頻繁に繰り返された。(妊産婦栄養の増配、働く母性を保護せよ、労働戦線(組合)を統一せよ、特急階級の台所を公開せよ、応急米即時復活、と皇居前広場で一般市民がプラカードを掲げる、ソ連の国旗を掲げた集団も居る)。 
マッカーサーは無秩序なデモは許さずと警告を発した。

1946年5月22日吉田内閣成立
鳩山は吉田茂に内閣を組閣するよう要請したが、吉田は嫌だよと拒んでいたが、復興の為決心した。
イギリスの戦争で負けて外交で勝った歴史があるという吉田の決意が語られた。
吉田は総裁を引き受けるにあたって三つの条件を出していた。
閣僚の人事に関しては自分に一任する事。
金策については自分に責任を負わせないこと。
嫌に成ったらいつでも投げ出す事。
組閣中には食料メーデーの代表が首相官邸に座り込み声明を読み上げた。
その為吉田は食糧問題を担当する農林大臣には左翼的傾向のはっきりした農林経済学者の和田を任命した。
吉田は何よりも経済復興を目指した。経済が復興すれば社会は安定すると考えた。
海外から引き揚げて来る兵士や民間人はそのまま失業者になり経済は復興しなかった。

1946年6月中国(中華民国)内戦勃発

1946年11月3日日本国憲法公布
吉田の最初の重要課題は新憲法草案の国会承認を得る事だった。
憲法改正要綱は十分納得し満足すべきものではなかった。
しかし大網は講和条約を締結し独立、主権を回復する事であった。
多分に外交感覚が働いていた。
吉田内閣は高まる労働運動に対抗しつつ、経済復興政策の確立と振興を急いだ。
しかし財政の大幅赤字による通貨増発などで激しいインフレーションが進行し、生産の回復は容易に進まず、労働争議は激しくなる一方であった。

1947年吉田首相はラジオで盛り上がる労働運動の自粛を国民に訴えた、労組の指導者を不逞の輩と発言、労働者の反発は頂点に達した。

1947年1月18日、2月1日ゼネストを宣言
誰も日本の未来を語る事が出来ない中であるのにも関わらず、国鉄を中心とした全官公共闘委員会260万人という組合員が2月1日をめざし21ゼネストを宣言。
吉田は社会党との連立によって事態の収拾を計ろうとしたが失敗に終わった。
GHQは再三にわたって中止勧告を出していたが組合側は折り合わずゼネスト前日1月31日マッカーサーは各組合の指導者に対し疲弊した日本に対して機嫌な社会的影響を及ぼす斯かる手段を取る事を許可しないと通告し、行動を中止するよう命令を発した。
指導者はゼネスト中止を発表した。
日本共産党は幹部を獄中から釈放してくれたマッカーサーを解放者と見ていたがスト禁止令を発する弾圧者となった。(正義から悪へ)
労働者の間に高まったエネルギーを吉田内閣打倒の政治闘争へ組織しようとしていた共産党指導者達はマッカーサーの権力に思い知らされる。

マッカーサーは吉田に総選挙を指示した。
根本問題に国民の意思表明を求める必要があるとした。
総選挙の結果、第一党となったのは社会党であった。
自由党は同じ保守派の民主党と連立して過半数を維持できたが、吉田はしなかった。

1948年1月6日ワシントンで日本を反共の防壁にと対日政策の転換を表明した。(共産党員の排除)
背景には米ソの冷戦があった。

1948年2月21日首班指名投票
社会党の片山内閣は公務員給与引き上げの財源問題で予算委員会で政府の予算案を否決、社会党内の左右両派の対立が元となり総辞職した。
後継内閣は民主党社会党国民協同党が連立し、芦田首相は吉田に協力を求めたが吉田は断った。
芦田内閣は片山内閣の遺産を引き継ぎ、政治力は弱体であった。
復興金融金庫の融資を巡って化学肥料会社の昭和電工による賄賂が発覚、10月7日芦田内閣は総辞職した。

1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国成立

1948年10月19日第二次吉田内閣成立
吉田内閣の最大の課題は10月18日GHQが示した経済安定9原則。その内容は国家予算の均衡を図る事、生産の合理化と増産、輸出の振興、等

1949年1月、3回目の総選挙、
民主自由党は151議席から264議席に躍進、共産党も4議席から35議席に増やした。

1949年年頭
マッカーサーは国旗掲揚の自由を認め、日本国民に対し経済再建に奮起するよう求めた。
3年半に及ぶ日本占領はマッカーサーにとって成功であろうとも、様々な援助を続けて来たアメリカ国民にとってその負担は大きかった。アメリカ国内から日本の経済的自立を求める声が高まって来る。それには何より政治の安定が不可欠であった。
吉田内閣が過半数を得た事がマッカーサーを安心させた。

1949年2月1日ロイヤル陸軍長官来日
ロイヤル長官は日本が攻撃されればアメリカ軍は防衛すると言明した。

1949年3月7日ドッジライン
インフレの最大の原因はアメリカの援助と日本政府の補助金にあるとし、地に足を付けた経済活動をすることが大切とした。

ドッジラインの緊縮財政により経済の停滞により、一部の産業は大きな打撃を受け、倒産や人員整理に追い込まれた。
国鉄は組合に対して9万6千人の人員削減計画を通告した。
1949年7月下山国鉄総裁が勤務中に行方不明となり線路上で溺死体で発見された。三鷹で無人電車が暴走して市民6人が死亡。
1949年8月福島で列車が脱線し乗務員3人が死亡。過激な労働組合や共産党の仕業とされ、容疑者が多数逮捕された。これらは国鉄組合や共産党の活動に打撃を与えた。
これまで過激な労働争議も警察の管理下に置かれ次第に下火となる。

ドッジラインの実施でインフレは収まり物価は安定した。しかし中小企業では資金難と税金に悩まされ、倒産に追い込まれる会社もでた。
心中事件について質問された池田大蔵兼通産大臣は、「税金が高いから死ぬるというのはどうかと思いますが、インフレ時代から経済安定へ向かっていく過渡期においては個々の場合には起こる事があり得ると思います」
これは無責任きわまる暴言、人道上許されないとして不信任案が出される。吉田は数を持って池田を守った。

1949年10月1日
中国は毛沢東率いる共産党が国民党に勝ち、内戦後中華人民共和国成立。
アジアは共産主義勢力の台頭を高めていった。
中国とソ連は日米を仮想敵とした友好同盟条約を結びアジアの緊張は更に増大。

1950年年頭の辞でマッカーサーは日本に自衛権あり
トルーマン大統領は1950年4月対日講和の進展の為に、国務省顧問にジョン・ホスター・ダレスを任命。
ダレスは吉田に日本の再軍備と講和後のアメリカ軍駐留の話を持ち出した。
吉田は明確な態度を示さず、ダレスを失望させた。
日本の疲弊した国力のまま、ダレスの言う再軍備には応じられないという主張が有った。
疲弊した日本の再軍備より日本の遊休設備(基地)を使って駐留アメリカ軍の再軍備の方が良いという考えを吉田はマッカーサーに伝え、マッカーサーからダレスに説得してもらった。

1950年6月6日共産党中央委員に公職追放令
GHQは反共の砦として固める為に日本政府に共産主義者の一掃を強く求めた、共産党中央委員24人に公職追放、一万人以上の労働者が赤色分子として職場を奪われた、いわゆるレッドパージである。
共産党は新中央指導部を発表

1950年6月18日
ジョンソン国防長官来日し、マッカーサーと日本の国防体制や在日米軍基地維持について東京会談を開く。
日本の非軍事化と民主化は第3次吉田内閣成立後、ほぼ達成されていたが、対日講和問題(独立)はアメリカの対日政策の転換や米ソの対立で目立った進展は無かった。

1950年6月25日朝鮮戦争勃発
ソ連のスターリンの許可を得た北朝鮮軍は38度線を突破し南へ侵攻、トルーマン大統領はアジアにおける共産主義の侵略と捉え、国際連合安全保障理事会決議により16か国の軍が参加し、マッカーサー指揮下の連合軍を送り込む。

1950年7月9日マッカーサーは日本国内の治安を保つ為、日本政府に国家警察予備隊の創設と海上保安庁の増強を指令、軍隊ではないという建前の警察予備隊は機関銃を持つアメリカ式軍隊そのものであった。

朝鮮戦争は連合軍が中国国境辺りまで侵攻した時、金日成はソ連に地上軍派遣を要請して断られ、毛沢東に部隊派遣の要請をし中国軍が義勇兵として参入し、毛沢東はスターリンに航空支援を要請するが断られ、進退を繰り返した。
トルーマン大統領は38度線まで巻き返したとき停戦条約を結ぼうとしたがマッカーサーが聞き入れず背いたので解任した(反りが合わなかった)。

1951年2月2日ダレスは講和の締結は意見の一致を見たうえで講和の意思の有る国のみでするとした。
自由党は再軍備無しの単独(各国ごと)講和、民主党は再軍備しながら単独講和で平行線をたどっていた、社会党は再軍備反対で全面(各国全てと同時)講和方式だったが、ダレスの見解で結局多数講和になった。

1951年4月16日マッカーサー離日

1951年5月1日アメリカ上院軍事外交委員会
マッカーサーの発言
彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。
Their purpose, in going to war was largely dictated by security. 
Douglas MacArthur

ウィロビーGHQ参謀の発言
東京裁判は史上最悪の偽善である。もし米国が同じ立場だったら日本と同じように戦うだろう。
Tokyo Trials were the worst hypocrisy in human history.
If the United States was the same standpoint, the United States might also have fought like Japan.

1951年9月8日サンフランシスコ講和条約
ソ連は中国が参加していない事について、直ちに参加させるべきだと主張した。
ポーランドとチェコソロバキアがこれに同調した。
議長は議題とは関わりない事だと述べ、採決により否決した。
ダレスは沖縄や小笠原諸島には凍結された主権がある事を強調した。
各国全権の演説が終わり、
最後に吉田全権の演説が行われた。
「ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や復讐的な条項を含まず、吾が国民に永久的な制限をさする事も無く、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由かつ平等の役員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は復讐の平和条約ではなく、和解と信頼の文書であります。日本の全権はこの公正寛大なる条約を謹言受託します。」
調印は51か国の内、ソ連、ポーランド、チェコソロバキアが署名せず、48か国と講和した ここにマッカーサーはいない。
この多数講和が出来た陰には、日本軍の武装解除が実にスムーズに行われた事、ポツダム宣言の趣旨を誠実に履行した事が、アメリカ初め各国政府の認める事となった事実も見逃し得ない。
米ソ対立の中、全面講和など不可能であり、後で吉田はこの多数講和を日本の為に「ダレスがやってくれたんだ」と言った。

1951年9月8日日米安全保障条約調印、
署名は15分で終わる。 
日米安全保障条約のきっかけはアメリカが提案してこちらがyesと言っただけと吉田が言った。

1952年4月28日講和条約の発効を持って独立国として歩む。

独立後の日本

1952年5月1日独立後初のメーデーでは皇居前広場で血のメーデーとなり労働者一人がピストルで射殺される。
労働運動を弾圧する破壊活動防止法に反対する動きや共産党の主導方針などが背景に成っていた。
警察予備隊問題、憲法第9条の解釈を巡って対立は深まった。

講和条約が発効し、吉田の自由党内の情勢も大きく動き出していた。
占領下でGHQに追放され活動を抑えられていた戦前以来の有力指導者たちが復帰して来た。
吉田は復帰した鳩山一郎や石橋湛山など党内攪乱の気配を感じていた。

1952年8月27日吉田は突然政府を解散、
鳩山は警察予備隊は巡査なのか軍隊なのか、再軍備必要、憲法改正は必要と演説。
吉田は再軍備はしない、国力の増加によって自衛力は減増するという方針。

1952年10月15日警察予備隊は保安隊に生まれ変わった。
本体は軍隊ではあるが吾が国の為の(歴?)や(役?)の為の大きな実力を有する部隊である。と吉田は演説する。

解散総選挙の結果、第4次吉田内閣が発足した

1953年2月28日予算委委員会社会党右派の西村栄一議員に対して無礼な事を言うなと吉田は言った。
西村は何が無礼だと言い返した、吉田はバカヤローと呟いた。
吉田に精神鑑定をやってから出直してくるべきと発言がある。
吉田の懲罰動議は自由党内の鳩山などの欠席によって吉田内閣不信任案が可決された。
吉田は国会を解散
吉田は大衆と迎合して政治をする政治家ではない。

1953年12月24日奄美群島返還協定

1954年7月1日保安隊から防衛庁・自衛隊発足、陸上・航空・海上の三つの自衛隊が誕生。

1954年9月26日吉田は欧米7か国旅行(約50日の予定)カナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、バチカン、イギリス、アメリカ。
旅行後、自由党内反吉田が待ち受けていた。

1954年11月24日日本民主党結成大会 
鳩山は自由党を脱党し日本民主党結成。

吉田は閣議の中でも事実上孤立している事を知ると辞表を置いて大磯の自宅へ行った77歳、1963年まで衆議院議員を務めていた。
吉田の後を継ぐ者に吉田派と反吉田派があった。
1967年10月20日吉田茂逝去 享年89歳

1956年10月19日鳩山内閣は日ソ国交回復
1956年12月18日国連加盟
1960年6月23日岸は日米新安保条約批准(安保条約改正)
1960年7月19日池田内閣成立
1964年4月5日マッカーサー病院で静かに息を引き取る
1964年10月1日東海道新幹線開通
1964年10月10日東京オリンピック
1968年6月26日小笠原諸島返還協定
1972年5月15日沖縄返還協定


マッカーサーと陛下の会話
「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。」
マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。

「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」
「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」

「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪を贖うことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」

昭和20年12月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分には耐えがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。
そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。
それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」と。

マッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったという。
「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。もし天皇を裁けば行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには百万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」

文芸春愁VHSビデオ「マッカーサーとその時代」、「吉田茂とその時代」から多くを抜粋。