古代の夜空 be quiet

磐長姫
秦系(ヘブライ)の姫で、環状列石(岩長)に関係する姫ではないか、ブサイクで瓊瓊杵尊に断られたのではなく、猿田彦を騙し討ちにした瓊瓊杵尊に服従するなどプライドが許さず、また拒否できる程の部族の一員と思われる。
ブサイクではなく、 顔が細く、鼻が高く、笑うと歯茎が出るフィフィのようなエジプト系美人だったのではないか。
石はレコードのように磁気記録が安定しやすい物体で、列石に囲まれた磁波が、星辰信仰のシャーマンにとって、何らかの波長を受取りやすい神聖な場に保つのではないかと想像します。
星の波長を受取る想いか、亡くなった魂を星の世界へ送る想いか、列石がアンテナや清めの代わりをしていたのではないかと想像します。
それが神社の境内の周りにある玉垣に成ったと思います。

物部
物部とは、神武東征後にヤマト連合の主要部族をひとくくりに物部と称したと思いますが、その中でも重要な部族が秦系であり、物部の十種の神宝の法を用いる。
卑弥呼は物部のヤマト族(ヤマトと秦のハーフかもしれない)。
紀元前660年頃 ヘブライ系秦の、「天御中主」と後に命名された民が移入し、その後裔に高千穂を中心とする九州の五部族(五色面)の長となる猿田彦、環状列石に関わるエジプト系美人の磐長姫などいる。
十種の神宝とは、通常の意識から離れ、潜在意識に移る催眠術の法具と思う。
【ひふみよいむなやこと にのおとふるべゆらゆらかくいのりてせば まかるともさらに生きなんと】
(ゆらゆらと催眠を懸ければ、シャーマンを通して亡き人と話ができる)
又は、十種の神宝とは、鎮魂の法を行う時の祭りの場を表す。
澳都鏡=遠くを映す鏡(過去の本心を知る為)、
辺都鏡=近くを映す鏡(現在の本心を知る為)、
八握生剣=八人の剣を携えた者(邪気等邪魔を入れない為)、
生玉=生きている人の魂(言い分を聞き説得する為)、
死反玉=あの世の人の魂(言い分を聞き説得する為)、
玉足=応じる魂(素直な魂に協力してもらう為)、
道反玉=背く魂(何もかも吐き出す為)、
蛇比禮=偉大な神霊(場に畏怖を表す)、
蜂比禮=見抜く神霊(誤魔化しが出来ない)、
品品物比禮=八百万に宿る神霊(神霊の知見の下)
これらが整いて鎮魂の法を執り行うのだと思います。
神聖な場を設けて、無念や怒りの魂を招き入れ、語り、心を解くのだと思います。
物部は軍事部族ではない。 星辰崇拝部族であり、 後にBC3世紀に秦系(徐福)の移入がはじまり、力を持ったため強大になったのだと思う。
【いつき奉りたまふなづけて石神大神と申奉り】(巨石信仰)

石上神宮
剣に籠る神の魂を鎮め、神として祀り味方に就ける
神を奉る神社を武器庫だと何故思い込むのだろうか、作為や誤認を、不確かにして、根拠と言い換え、証拠となる。
十握剣は十本の剣という意味だと思います。剣を数える時、1本2本ではなく、一握り二握りと言ったと思います。

太秦
神武東征時、神武は秦の太玉命の協力を得て備後・備中・備前を征討出来、東征を成功に導いた報酬として、太秦・徳島・千葉・筑波等を授かる。
そして饒速日はクナト・新羅・秦・竜王系が入っているのを、秦系であったように操作し、ヤマト連合(邪馬台国・大和朝廷前)王が秦系であったように操作した。 
そして太玉命の秦系も天孫族系の流れであるような表現をしたのだと思います。

海人と綿津見と隼人と安曇
神武は懇親な海人(竜王系)を隼人といい、九州北部の海人を渡津見とか、入り江に居るから阿津見、安曇(阿=曲がって入くんだ所)(渥美半島)と言ったのだろう。
元は海人で習慣は同じだったがシャーマンにより習慣が変わって来る。

ヤマト族
東南アジア・沖縄から入って来た海人族で卑弥呼はこの一族、竪穴式住居と高床式住居を使い、丘陵上に住む、箱式石棺墓を使用する、シャーマン気質。 竜王族(イザナギ系や住吉系や呉越の海人)は遠戚

邪馬台国 (ヤマト近畿連合=ヤマト大国=邪馬台国)
57年頃は魏に対しては奴国が主要国であり、以降ヤマト族が台頭してきて、180年頃ヤマト連合が魏に対して主要国となり、卑弥呼はその頃生まれる。
そして卑弥呼の優れたシャーマン性が要となり、220年頃ヤマト連合に負けない近畿連合を含む広大なヤマト近畿連合邪馬台国となり中心は近畿に移る。 
卑弥呼以前の近畿を含まないヤマト連合国の名は魏に対してまだ出来ていなかったと思う(倭国)。
近畿を含み大国になったので邪馬台国(ヤマト大国)と言われ、崇神天皇(神武)以降は大和朝廷。

九州王朝(九州連合)
筑紫君磐井は筑後国熊襲国(親新羅)になるが、朝廷に献上したのが筑前国糟屋郡では熊襲国が糟屋郡まであったことになる。 
熊襲国は地形的に大宰府の南の筑紫野市から大牟田辺りと思われ、ヤマト連合国(親百済)は大宰府以北と思われる。 
なのに粕屋郡を献上したというのは、応神天皇以降、神功皇后と熊襲国と新羅同盟が筑紫国同盟を推進(侵攻)し、糟屋郡まで広げていたので、 継体天皇の時、糟屋郡を返すという事象ができたとしか考えられない。 
だとすれば、継体朝廷の反対勢力は神功皇后新羅同盟の子孫と熊襲と筑紫となる。(応神天皇は391年 百済を攻め始める)。
高良大社が高良玉垂命という神功皇后に関係する祭神とされ、三井あたりの水神は何由来か分からなくなっており、高良大社の4世紀以前の歴史が完全に消されているのが、370年頃神功皇后による九州王朝成立の証しと見える。 
その時には熊本の球磨族、鹿児島の曽於族は神功皇后勢力に征服され、《神功皇后勢力》では大和朝廷に対して都合が悪いので隠れた勢力であったが、中央からは《熊襲族》と言われた。

卑弥呼
記述がないので、記紀編纂の8世紀の朝廷側とは直系ではない人物であるから、物部系と思える
ヤマト族の父(黄人)と秦系の母(白人混じり)のハーフではないか、福岡~出雲はヤマト族、宇佐~広島・松山辺りは秦系、そしてどちらにもハーフが居る。
九州から近畿の国々が大巫女と認める偉大なシャーマン
卑弥呼は誰とも会わないので、魏に「卑弥呼は鬼道を使い、衆を惑わす」と蔑む報告をした一族(奴国)とは敵対関係 
全ての文献が客観的正確ではなく、事実とする証拠にはならず、根拠にならないから説が幾つもある。 
あなたを妬む人が、あなたを評価し、文献に残したら、冤罪を受けたら、何よりもそれを信じた人々(私達)に絶望するでしょう。 
古文献にどれだけ真実が正当に書かれているでしょうか。 
とんでも歴史という言葉を使って、先駆者の大家から外れる事を許さない古代史研究の大家の人達が言っている古代史は、勢力側が創った文献で、事実を書くわけがなく、古代から尾ひれが付き続けており、これこそとんでも歴史なのに、だから古代史研究に興味を持つものが多いのに、いつの間にか大家の押さえつけに洗脳されてしまい、少数の大家の言い分に、多くの庶民が誘導され、大家の仲間入りをしようとしている。
古代の人の生きた経験を誤魔化し、陥れた者勝ちを証明する歴史になり、冤罪は晴れないのだと、失望とまやかしの社会の土台を築いている。
歴史を学ぶという事がどういう事か、本や大家のピラミッドを作る事ではなく、人間を知って、自分を知り、しっかりとした、カツラキ(精妙な知識)でイセノクニ(神の法を集約した国)の土台を作るためにあるはずです。

大国主と素戔嗚
縄文時代は環太平洋には国境が無かったから、人は自由に足軽く移動していたと思います。
ポリネシアから日本へ、日本からポリネシアへ、ポリネシアから南米へ、台湾から北海道へ、遊ぶ楽しみの無い好奇心の強い縄文人は、遠距離を移動することが遊行のように足軽く移動していたと思います。
しかし、弥生後期は多くの国に分かれて大乱状態であるから、自国を出る事は難しいと思います。
そんな中、出雲地区の大国主が近畿や九州に自分の縄張りであるように移動できるわけがありません。
素戔嗚が高千穂や出雲や紀伊で主導的に行動できるわけがありません。
多くの国に分かれて争っていたから、卑弥呼を共立して邪馬台国を成したのだから、それまでは王のような者が自由に移動できるわけが無く、自分が守る地区の外に出るはずがありません。
各地の大国主や素戔嗚、豊玉姫等の名は、前権力者の名を消すために当てはめたのであって、その前権力者が大国主や素戔嗚等の同族であろうが、敵対部族であろうが構わず都合の良い名を当てはめるのです。
出雲の大国主は卑弥呼が亡くなったので、素戔嗚に攻められ、その後素戔嗚が出雲の王になったのだと思います。
徹底的に各地の前王の名を消しているので、もう分かりません。
ただ記紀編纂の8世紀の政権の物語に都合の悪い事が消されて、そこに消された事があるという証拠に成るだけです。
同族か敵対かは関係なく、物語に都合が悪い事象を消すために当てはめ誤魔化したのです。
年代も名前も関連付けも伝言が、その時々で都合の良いように創られます。  
そのような嘘が人間の癖です。


出雲の国譲り
出雲にはクナト系とヤマト系の民が共存していたと思います。
ヤマト系の卑弥呼を共立して、出雲以西のヤマト連合と近畿連合が、ヤマト大国(邪馬台国)に成りました。
この連合を成すために大きく働きかけたのが、当時の出雲国のヤマト系の王でした。
畿内は尾張クナトから派生した部族が住み分けた土地で尾張の王の下位の土地だと思います。
220年頃、畿内はクナトや渡来人、秦などのいくつかの部族間衝突が絶えませんでした。
尾張の科戸~科野はそのようないさかいは少なく、まとまっていました。
欠史8代の綏靖―安寧―懿徳はその尾張クナト系の王を表していると思います。
その尾張クナトの世襲足姫と婚姻することによって出雲のヤマト系の王が、卑弥呼を共立して大連合を建てようと畿内に働きかけ、尾張クナトの後押しもあり大連合が成立しました。
卑弥呼が女王になると、その立役者の出雲の王は、邪馬台国で大きな影響力を持つことができ、大国主と言われました。 
大国主は卑弥呼の縁者であることを後ろ盾に、中央へごり押しをしたかも知れません。 
その為中央に嫌われていたかも知れません。 
出雲大社で西向きに祀られているのは、「貴方は中央に口出しせず、出雲以西を見ていなさい」という意味かも知れません。
248年頃、卑弥呼が亡くなると、丹波辺りに居ましたクナト系のスサノオが、吉備から侵攻し、出雲のクナト系の民と合流し、ヤマト系の大国主を攻めました。その時、大国主が殺されたか自害したかは分かりませんが、スサノオが出雲を征服し、近畿を含む邪馬台国の男王に成りました。
ヤマト系の王からクナト系の王に国譲りをしたと言い換えました。
スサノオは大市姫と結婚します。
大市姫の市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味で、大市姫は偉大なシャーマンでしたから、台与と言われる女王になりました。
それ以降、出雲の地は主要国ではなくなり、影響力を持たないように見張られました。
邪馬台国(ヤマト大国)を成し得た立役者の大国主とヤマト民の口惜しさは、大和朝廷にとって、祟りという懸念になりました。
スサノオは、250年頃の人で父は磯城県主大目(畿内クナト)。母は辛国息長大目(新羅系)、赤留姫とも言われました。
磯城県主(アコタヌシ)大目は畿内主要勢力の磯城氏・志那都彦・級長戸辺の系統で邪馬台国に成る前は、瀬戸内や隠岐などと交易をしていたクナトの大部族です。
樹木繁茂せる山領を司配する志芸(シギ)山津見神は磯城(シキ)氏と思います。
磯城県主大目の時代は、同時代に瓊瓊杵尊・猿田彦が居て神話の系統とは重複してしまいます。
赤留姫の新羅系は親百済の大和朝廷にとってよろしくありませんでした。 
さらにスサノオと大市姫の間に饒速日が生まれていていました。
饒速日は市杵島姫と結婚し、市杵島姫の優れたシャーマン性から畿内の主要勢力に成ります。
スサノオ~饒速日の系統の働きは完全には隠しきれるものではありませんでした。
しかし、それを認めると瓊瓊杵尊系統が薄れてしまう為、隠したかったのです。

出雲大国主と尾張クナトの世襲足姫との婚姻からの天皇の名は考の字を使い、孝昭天皇が大国主、考霊天皇が磯城県主大目、孝元天皇がスサノオ、にあたると思います。
台与(大市姫)は世襲足姫と同じ様に尾張クナトから嫁に出たと思います。
科戸~科野の伊勢~尾張~信濃はクナト勢力の主要土地に成っており、渡来人が住んでいない田舎地でありましたが、畿内からは一目置かれていました。
だから三種の神器がある伊勢神宮や熱田神宮があるのです。
大祓詞に【科戸の風の~如く】【焼鎌の敏鎌以ちて打掃ふ事の如く】とあるのは、【級長戸辺も厚い雲を吹き放つ様に、霧を晴らすように、大船が大海に出る様に、従わない者を十握剣で討払い、統一したのであって、統一の為、誰でもすることで仕方なく、罪では無いよ】と、大和朝廷側が以前のクナトが統一した時の様子を書いて仕方ないことよと言っているのだと思います。
伊勢神宮にも数本の剣があるらしいのですが、十握剣は十本の剣という意味だと思います。
剣を数える時、本ではなく、握りを言ったと思います。
大和朝廷の中央の畿内も、科戸は崇敬せざる負えない所だったと思います。
倭姫が伊勢に決めたのは最初から伊勢に移せば中央の権威が下がるので、迷ったあげくとしたのだと思います。
出雲国譲り後の宮島の対岸の歴史
平安時代には、廿日市市宮島の厳島神社、府中町の多家神社両社は国司が幣を奉る名神大社であるのに対し、廿日市の速谷神社は中央政府の神祇管が幣を奉る名神大社であり、安芸国最高の地位にありました。
弥生初期には、廿日市や五日市はなだらかな扇状地を段々にして平地を作り、水稲や畑を作っていました。
弥生中期になりますと、ヤマト族や秦系が共存していました。
250年頃、卑弥呼が亡くなり出雲でヤマト系の王とヤマト系の出雲族がスサノオとクナト系の出雲族に征服されました。
ヤマト系の王がクナト系の王に国譲りをしたと言い換えられました。
スサノオが出雲を支配するようになると、備後の吉備勢力が東広島市西条辺りまで西へ進出していき、やがて広島市辺りまで進出してきました。
280年頃には吉備勢力は東は畿内へ進出し、西は廿日市辺りまで進出してきて、東は饒速日が遣られ、西の廿日市や五日市の秦系やヤマト族は征服されました。市杵島姫は逃げる途中廿日市辺りで遣られました。
生き残った秦系やヤマト族は高地へ追いやられました。
290年頃、神武は叔母の市杵島姫の仇討と、畿内や西へ進出した吉備討伐の為東征し、廿日市の吉備勢力を討つため、吉備側に付いていた安芸津彦に協力要請し、安芸津彦と共に吉備勢力を討ちました。

戸隠とアラハバキ
科野はヘブライ系秦とクナトが住み分けしていたと思います。
ヘブライ系秦はモレヤとミシャグチから、
クナトは 戸隠の社紋が鎌から、クナトの紋だと思います。
草薙剣は刃の部分が草を刈り込むように内反りの方に付いている剣、十握剣は十本の剣だと思います。  
蛇神信仰から、出雲の蛇、三輪山の蛇、伊吹山の蛇、戸隠の蛇はクナト系の神だと思います。   
墓域習慣から、4000年前青森野場遺跡では竪穴住居廃絶後、配石遺構の下の竪穴に、埋甕が出土。
4000年前長野安曇野市北村遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、そこが墓域となる。
4000年前奈良宮の平遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、配石下の土坑から埋甕が出土。
など、配石遺構の下が墓域になったであろう習慣が同じであるから同民族であると思います。
武御名方は出雲から逃げて来たのではなく、元々科野にいたクナトで、秦系の娘を貰う事で、クナトと秦が共存するように成ったのだと思います。 
科戸~科野~越~丹波~出雲はクナトの主要道路だと思います。
戸隠はクナトのシャーマンであるアラハバキの流れの大巫女を大岩で封じた事を、高千穂から大岩を下界へ投げ落としたと、話を変えたのだと思います。
それは崇神の時だと思います。手力男は神武の大和入りに協力した武甕槌󠄀かも知れません。
クナトの武御名方と同族で、当時春日に住んでいて、東遷後の戸隠の大巫女を大岩で封じたかも知れません。
角力の元祖と言われる。
その頃から安曇が入って来たと思います。
応神の時代に成りますと、崇神勢力から応神勢力に替えないといけませんから、各地の伝承を応神の正統性を表すように変えないといけません。 
科野は崇神の時は五百建命を置いて統治しましたし、古代から続くクナト、秦、崇神の色が強いので、応神勢力が正統である様に尾張系図として新しく編さんし、応神天皇に繋げたのだと思います。
海部系図も応神勢力に替わった時編さんされ、丹波もクナト、秦の色が強いので、海部から応神へ繋ぎましたが、天照もイザナギもイザナミもスサノオも居ない系図では引け目を感じるので、科戸も科野も丹後もクナト系の同族が居たと思いますが、尾張(クナト)と海部(海人)は火明命を祖とする同族として正史であると思わせるようにしたと思います。
火明命は誰の諱か分りませんが、せめて天照大神に代わる者が欲しかったので、天照す太陽の欠片の火の神が明るく照らす命としたのだと思います。

天照大神
太陽の神霊が宿る人
卑弥呼の死後日蝕になったので、その時生まれたか、又は神懸ったから、優れたシャーマンである向津姫が日霊女神と認定される。
太陽神霊が宿る人は一人だけではなく、複数いる場合は、和魂、幸魂、奇魂、荒魂と言い別けたり、分け御魂を引き継ぐ者とか同神と表現される。
そのような表現の裏には、同等に優れた者、世代交代、前者の封印、人は替わっても神は替わっていない、という意味がある。


表面には隠れたままアイヌの意志が残っている
アイヌは、神の国カムイモシリと人間の国アイヌモシリと死者の国ポクナシリがあります。
神の国と人間の国を結ぶのは火の神で、火の神を通じて様々な神と繋がります。
火や水など暮らしに関わる依存度の高いものほど位が高い神になります。
人の為にならない地震や伝染病は悪い神になります。

家の東の神窓の外には、幣柵があり、様々な御幣が置かれ、火の神に語られた言霊は神窓を通して幣柵に送られ、御幣に乗った言霊は幣柵から鳥の如く神の国に飛び立ち、それぞれの神に伝えます。

神の国では、森の神や海の神などが、あの世とこの世のことを語り合ったり、誰をこの世に送ろうか話し合ったりしています。
様々な神は、この世で動植物の衣をまとって仮の姿で現れています。
この世の万物には神が宿っています。
この世に降りる場合は、依代である高い山とか森とか木とか神聖な場所に降りて来て、そこから肉体の衣をまとって川沿いに進み、村に訪れます。
神の国に帰る時も幣柵から川沿いに進み、依代から帰って行きます。
あの世の入口はカムイトーと言います。

亡くなった普通の人間の魂は、頭を東にして埋葬し、起き上がって西へ、火の神様が選んだ配下の神々が先導してあの世に行きます。
西はあの世では東になり、後から後から子孫が来るので、年数が経った先祖はあの世の西へ移り、この世の東へ生まれるのです。
鹿などの小動物は個々の魂ではなく、その種の魂ととらえます。
熊は個々の魂ととらえます。
熊は偉い神さんなので、御魂送りをする時、共物を沢山供えます。
熊の魂は神の国に帰った時、共物を分け合い、共物が多いほど神位が上がり、再びこの世に来ると考えます。
人を食べた熊は悪い神なので、ばらしてその場に捨てます。
そのような悪い神や、または悪い人間は、再生する事のない、腐ったような場所テイネポクナシリへいきます。
このアイヌの風習は「火の神の懐にて」の著者の松居友さんとアイヌのイトばあさんの話から引用したものですが、他にも沢山、神の国カムイモシリや死者の国ポクナシリのことが詳しく書かれています。

私はこのアイヌの生き方が神道や古代史に残っていると感じます。
まさにクナトがアイヌの流れだと思います。
始めに生命の生まれる東・太陽があり、その意識が表れる山があり、死に行く西が在り、その表れが海であり、山と海を繋ぐ川があり、その途中に村があります。
アイヌの聖地、賀張山ポンニトイエ岳の山頂に、神の国から人間の国に、ニシカンル姫(雲)が降りて来ました。
山一帯の神は男、水は女の神です。
生命の生まれる東の山から、死に行く西の海を繋ぐ川の話は、瀬織津姫の話元、ニシカンル姫ではないでしょうか。
チキサニ姫(ハルニレの木)はカンナカムイ(雷神)がひと目ぼれして雲の間から落ちて、身籠り生まれたのがアイヌの先祖です。雷神はアイヌではないでしょうか。
森は大地と樹木を司る神々が乱舞するところで、熊を神の使者として神聖視しているアイヌは、紀南を熊野と呼んだのではないでしょうか。
樹木繁茂せる三領を司配する志芸山津見神(シギヤマツミ)は磯城氏(シキ)でアイヌではないでしょうか。
かまどの神大戸比売は、天火明命は、火の神を中心に考えるアイヌではないでしょうか。

歴史を創るのは強者ですが、歴史は民族の知性・精神が創ったものですから、作為を入れず正しく歴史を伝える事が、自分では気づかない民族性が出来た流れが見えて、自分が見えてくると思います。
先人の経験を正しく伝えようとしない民族はいずれ崩壊すると思います。
歴史を封じれば、嘘の誇りの為に志を見失い、覚えられない法律を作り続けないと社会が維持できず、いずれ崩壊すると思います
弱肉強食を捨てようとしている人間は、力による支配は受けない約束のはずなのに、勝てば支配が許されるから、戦争が無くならない。戦争に勝ったら立場が上になる。
それなら法律は要らないのにおかしなことです。
作為の無い歴史を長く伝え続けていくほど、穏やかになる事を学ぶことができ、身に付いてくるのだと思います。
「人生は一度きり」ではなく、数万年前からのリレーの途中なのです。
人間は当たり前にしてはいけない事を繰り返しするのです。
ものごとは傲慢な者の方へ事が進まないと解決しないのです。
だから本当の事を言う者が潰され、正しかった言葉が消されていくのです。

人間は共通の価値観の中で生きることが幸せと感じるのですが、全くそのような状態になる事はあり得ません。
常識は平均的な価値観で成立している様に見えますが、誰にでもあてはまる事ではありません。
あてはまる人ほど幸せで、外れる人程ストレスを感じるのです。
大きく外れたイエスや釈迦やマホメットは共通の価値観の中で暮らせるという幸せを得ることが出来ない中、出て来た一部の人達だと思います。
人間は知恵があるから、価値観が雑多に分かれています。
せめて価値観が全く違うという事を認識して、共存できる敬える心を常識として学ばなければいけないと思います。
人間は自分だけ優位に居続けることは不可能なのです。

人間だけが、絶望し、そこから気力を見い出し、再び悩み迷い、同じことを繰り返し続ける。
宇宙から見れば地球が無くなっても何でもないのに、 未来から見れば今は過ぎ去った過去なのに、物も権威も壊れるのに、 どうせ人間はふびんなのだから、過去に何が有っても、隠し事の無い魂だけが、怯えることがなく、この上なく幸せなのに、なんで、はかりごとを巡らすのでしょうか。
はかりごとを巡らしてもほんの数十年なのに、そのために何百年という死者の国ポクナシリを腐ったような波長のテイネポクナシリや、人をけなしたり威圧したり、欲やこだわりの波長のポクナシリで過ごし、成長しないままこの世に生まれ出るなんて、勿体無い事です。
せめて元のすがすがしいすなおな波長の死者の国ポクナシリに帰り、世界中の多くの仲間と再会を喜び合いたいものです。
「人は一人では生きていけない」ではなくて、「人は一人ではないのです」

下載のスコットランド民謡の Auld lang syne の曲は、 ヘブライ人のダンサーたちによってスコットランドに伝わったダンスの中からきているそうです。 その曲にロバートバーンズが詩を入れました。 世界各国で翻訳され、年明けに歌われています。 日本では編曲され詩を替えて「蛍の光」で知られています。「変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、流れた時を埋めるために」と唄っています。


クナトと伊勢
クナトとはあの世との意思疎通に長けていて、日常の神への礼拝や救いを求めたり、霊の御魂送りや、霊障に対処する知識を普通に持ち、まつりごとをしていた民族の事をいったと思います。
アイヌでカムイトーは神の国と繋がっている処、クは句点の切れ目、ナは納める、で、あの世と繋がっている境に精通している民族という意味だと思います。
シナ戸は風の神の表れる処、カマ戸は火の神の表れる処、戸隠しは神の表れる処を隠した、などです。
クナトの大神はクナトの王の事を言い、アラハバキはクナトの巫女の事を言い、大戸比売はクナトの火の神の巫女のことを言っていると思います。
アイヌは火の神を中心に様々な神々と通じます。
伊勢に天照大神が祀られているのは、九州系統ではなく、尾張クナト系統だからだと思います。
その神は台与だと思います。
それまでで、偉大なシャーマンは、ヤマト族の卑弥呼、イザナミ系の向津姫であり、崇神天皇は向津姫を最高神として祀りましたが、不吉な事が起こるので、クナト系の台与を最高神として台与の名を使わずに天照大神として、台与が祀ってあると想像する多度大社のクナトの地と同じ伊勢に祀ったのだと思います。


市杵島姫
昔はイツキのシマと言っていました。[下記の客人神社の説明] イツキ(潔斎して神に仕える) しま(揣摩ー未知を推量する) 市子(生霊・死霊の意中を述べる神子) なので、 心身を浄め、生霊・死霊と波長を合わし、神霊の言葉を降ろし、未知を推量し、政(まつりごと)を導く神子(シャーマン)。

下照姫
290年頃、台与の次代のシャーマン
朝廷の直系ではなく、物部系であるから、後世、姫許曽の赤留姫と同神と作為して、物部系の印象を薄めた
陸耳御笠(丹波大己貴)と匹女(菊理姫・多紀理姫)の娘で葛城の太陽神であったが、宇摩志麻遲が軟禁状態であったから、名草戸畔亡き後の紀伊のシャーマンとして名草姫として任される(草の主は菊の異称)(ヘブライ秦系)

名草戸畔
畿内は出石系大綜麻杵命系が主要勢力になろうとした目論見がシャーマンの優劣で失敗し、270年頃には饒速日命勢力が畿内の主要勢力になる。
そこで270年頃、出石系大綜麻杵命勢力の伊迦賀色許売と孝元天皇(スサノオ)の子とされる(作為)彦太忍信は紀国を狙い、名草戸畔を殺害し、名草戸畔の姉妹の山下影姫を娶り、紀国を執る。
大和中心は饒速日勢力から崇神(神武)勢力になりましたが、 紀国はスサノオ(孝元天皇)と縁があるという名目(作為)で出石系伊迦賀色許売とスサノオと武内宿禰色の強い地区となっていた。
その後390年頃、神功皇后勢力が畿内入りを狙うにあたって、出石系伊迦賀色許売後裔勢力と協力し、秦色の強い大市姫(250年頃)系統から崇神系統(300年頃)の勢力弱体化を計り、畿内を制圧する(390年頃)。
伊迦賀色許売は開化天皇(饒速日)との間にも崇神天皇(神武)を産んだとあるが作為であり、彦太忍信も孝元天皇(スサノオ)との間の子というのは作為と思う。
彦太忍信が名草戸畔を遣った270年頃は、神武が畿内に入る300年頃以前の事で、出石系伊迦賀色許売系後裔勢力は390年頃神功皇后勢力と協力して再び紀国を奪い取ったので、270年頃の名草戸畔殺害の所業を300年頃の神武の所業とし、祖先の罪を消したものと思います。
神武が紀南から入ったのは、紀南はたぶん山祇系であり、隼人山祇系の木花咲夜姫との縁で、河内から紀南の協力を得るために紀南から入ったと思います。 
途中、名草戸畔を遣った事に成っていますが、戦力が落ちているのに、紀南へ行く途中で、わざわざ名草戸畔を遣る動機がありません。 
ましてや、名草戸畔は紀氏と思われ、饒速日勢力側であり、神武東征の水先案内をした紀氏珍彦もおり、なおさら神武が名草戸畔を遣る動機がありません。
どちらかというと饒速日や神武の陰になってしまった彦太忍信に動機があります。

小説 ふびんな三女神
三女神が宗像を奉斎する前には、 前統治者の巫女が奉斎していた。
前統治者とは三世紀中頃の、ヘブライ系秦の猿田彦と、イザナギ竜王系向津姫との子の市杵島姫(筑紫大神)の流れです。 
その約100年後の350年頃に新羅系五十迹手が市杵島姫の流れの部族に婿入りし、 後に神功皇后となる虚空津姫を産みます。 
虚空津姫はイザナギ竜王系の娑渇羅竜王との間に、 応神天皇・八幡姫・頗理采女・善女竜王を産みます。 
390年頃、応神天皇として畿内へ入る頃、 神功皇后は市杵島姫の流れが奉斎していた辺津宮の地元民に、 これから神功皇后の三姉妹が奉斎するので、 三姉妹用に宮を三カ所用意するように要求します。 
地元民はあまり深入りされたくないので、 思案のあげく、 辺津宮と大島と沖ノ島は大切な神籬であると説明し、大島と沖ノ島にも宮を用意しました。
三姉妹は宇佐から宗像に出るのも嫌でしたのに、さらに沖ノ島まで行きなさいと言われ拒んでいたら、 沖ノ島は新羅と繋がる一番大切な神籬であるから行きなさいと説得され、 三姉妹は交代しながら三宮を奉斎することにしました。 
長女は優れたシャーマンでしたが、次女と三女は巫女性が低く託宣があまりよろしくないので、長女がすぐに辺津宮に戻れるように長女が辺津宮と大島を移動することにして、 次女と三女が辺津宮と大島と沖ノ島を移動する事にしました。 
長女は巫女性が高いので地元民の考えはすべて分っていましたが、 自分たちの傲慢さと地元民の心も十分理解できたので仕方なく黙認し、 次女と三女は地元民の考えを見透かす程のシャーマンではないので、与えられた神籬をやけに成りながらも真面目に奉斎していきました。 
後世有名な三女神として祀る時に、 八幡姫・頗理采女・善女竜王の名前は使わずに、辺津宮初代の市杵島姫と有名なその姉妹の湍津姫・多岐理姫の名を使いました。

以前大島に行った時、何か後から付けた様な場所だなと勝手に感じましたのと、沖ノ島の祭祀が4・5世紀からというのは新しいなという思いがあり、菊池展明さんの「八幡姫とは何か」の中に 【かつての辺津宮は、新たにやって来た「惣社」に、その祭祀場を譲ったかたちとなったとようです。】 とありましたので、私のイメージが膨らみ物語を作りました。


因幡の白兎
AD230年頃、近江辺りはクナト系の葛城尾張連合や、秦系の徐福子孫と渡来系漢人等が住んでいたと思う。
秦国から逃れ新羅辺りに移住した漢人が230年頃、遠戚の秦を頼って近江辺りまで来て住みましたが、先住のクナト系民に祖国秦の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許された。 
後に天日矛と言われた。 
その恩あって、後に秦系の少彦名が伊和大神の次の丹波大国主である大己貴の手助けをする。
出石の秦の事を表だって蔑み難いので、因幡の白兎とした。

八十枉津日神
魏がシャーマンの事を鬼道と愚ろうしたのを知った後世の者が、八百万の中心の日神を愚ろうして付けた名前。
このように「他所の庭」の言う事が正しく思えるような人の事を、夏目漱石は「新しい物に飛びつき、100年の習慣を捨てる未練無き国民、想像力に欠ける国民」と言ったのだと思う。

丹生都姫
丹を生むのだから後付けの名であろう。爾保とは異なる。
天照の姉妹というのは天照の時代頃の天照の親族か子孫という意味合い。
豊後辺りに居て水銀鉱床に敏感なシャーマンであり、神武の東征に同行し協力した。
大和では縄文時代は火の神、水神、土の神など自然神霊を奉っていたので、その水神の名を丹生都姫として祀った。
丹生都姫は神武の母の玉依姫の娘で、鵜草葺不合尊ではない異父(イザナギ系)の娘と思う。

アラハバキ 武甕槌󠄀の祖先 世襲足姫 奥津姫 大戸姫
クナト族で神はアラハバキーアラは、霊験あらたかな(荒神と書いてアラ神) ハバキは、はばかるほど畏れ慎む、畏れ慎むほど霊験あらたかな神、神をいたこが口寄せする文化。
脛は寒いからスコットランドの正装の様に脹脛を保温していたから、そこから後付けで脛の字を使ったのではないかと思う。

熊野神社
全国にある熊野神社は、東はクナト色の強い神社を熊野と改名し、西は熊襲や狗名色の強い神社を熊野と改名したものと思います。
熊野本宮の創立は崇神天皇の御代とされ、熊野権現は唐の天台山を飛び出され、日本国鎮西の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に、伊予国の石槌󠄀山に移り、六年経て、淡路の遊鶴羽の峯へ、更に六年過ぎて、紀伊国牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松木のもとに移られたという。それから五十七年後に、熊野新宮の南にある神蔵峯に降りられ、六十一年を経て、新宮の東にある阿須賀社の北、石淵の谷に移り、結速玉と家津御子の二字の社に祀られた。とありますから、作り話の神話の様に思います。
崇神天皇の御代に、命を生み出す霊妙な力を持った熊野夫須美大神はイザナミとされ、勢いのある熊野速玉大神はイザナギとされ、食糧の神とされる熊野家津御子大神はスサノオと改名されたのだと思います。
しかし、本来の神は、熊野夫須美大神はアラハバキ、熊野速玉大神はクナト大神、熊野家津御子大神は火を使って料理をするので大戸比売(澳津比売・かまど神)だと思います。
三神を三宝荒神と言ったと思います。(荒は霊験あらたかな)
山形の熊野大社の本殿裏に、うさぎが三羽隠し彫りされています。
兎を三羽見つけた人は「願いが叶う」「幸せになる」と言い伝えられています。
これは隠し意味だと思います。
「兎に祭文」と言って、「兎に神仏に対する祈願や祝詞を言っても解からない」という意味です。
わざわざ叶わない意味を持つものを三神の代わりに三羽の兎で隠し彫りするでしょうか。
熊野大社の元の神はイザナミ・イザナギ・スサノオの三神ではないから、アラハバキ・クナト・大戸比売を胸の内に思い祈願しないと叶わないという意味だと思います。
だからホツマツタエで筑波山にイザナミ・イザナギが居るというようなことになってしまったのです。
だから筑波男大神はクナト大神、筑波女大神はアラハバキ神だと思います。

饒速日と伊須気依姫
イスケヨリヒメは大久米の刺青を見て驚いたので九州ではなく大和の民
神武(崇神天皇)の嫁(服従の証し)だから九州でなく、大和の民なので両親も大和の民。
大物主(饒速日)は崇神(神武)にとって祟り神だから大和の民。 
饒速日も伊須気依姫も東遷したのではない。

火明命
火明命が誰だか分からないけど、火明命はハワイの火の女神ペレの流れの発想かもしれない。
日の神から太陽の欠片の火の神を産み噴出という発想と思われる。 
ハワイの瓢箪楽器でイプヘケのチャントで火の女神ペレに地震を治めてと話架けたかもしれない。
瓢箪や鯰が地震に関係するのもハワイが関係しているかもしれない。 
ハワイはふんどしも着けるしホラ貝も吹く。
サンベはアイヌで心臓のこと、三瓶山は血を噴き出す山でもあり、火の神の山でもある。


客人神社
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のこと。
ヘブライ系秦のエジプト・ケルト民族等を客人と言ったと思う。
九州では古くから居たので客人ではない。
出雲、広島、松山辺りはヘブライ系秦民族と海人のヤマト民族のハーフが沢山居たと思う。
見慣れないので客人。
白日別とは新羅の分国と言われるがそうではなく、白人族という意味。
伯家神道は秦系が元の神道と思う。 白川は白皮は白人
海老山の麓に湯蓋道空夫婦住み、厳島大明神を崇敬し奉り、ある時、市杵島沖に蓬莱浮く(蜃気楼)、金波の中を船で進み砂金を汲み入れる蓬莱を見ると、屋の傍に温湯湧き出し、富貴なり塩浜の長者となり、道空深く感激し、厳島明神の霊験だと、敬神の念いや厚く、客人社壇を再興し、市杵の島の大神を勧請し、厳島神社の摂社として塩竈の神を相殿に猿田の彦を神祀る。(市杵島姫は竜王系の日霊女と秦系の猿田彦の子であると思うから、黄人と白人のハーフ)
客人社壇に市杵島姫だから、市杵島姫は客人さんと認識されていたと思われます。
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のことだと思えるので、白人とのハーフではないかとおもわれ、その関係で猿田の彦を祭神にしていることから、猿田の彦も市杵島姫と同族と思われ、鼻の高い白人とのハーフと思えます。
“市杵の島の大神” とか “猿田の彦を神祀る” という書き方から
島=揣摩(しま)=未知が見える=未知が見える巫女
彦=王という意味で部族の王という意味と思われる。 
この様に古代の言葉と現代の言葉は変わってきていると思います。 例えば剣の数え方は一本二本ではなく、一握り二握りで数え、十握剣=十本の剣という意味と思える。

河童と胡瓜と祇園祭と少彦名と埴安彦
胡瓜はメソポタミア原産でシルクロードから6世紀頃日本に入ってきたと言われている。が、それ以前にヘブライ系秦が日本に持ち込んだかもしれない。
薬だったかもしれない。
胡瓜は、八坂神社の木瓜紋や、祇園祭で胡瓜を食べないなど、ヘブライ系秦に関係する。
河童は河伯からきているらしく、河伯は河の神であり、古代中国の秦国の九千坊のことを河伯と言う。
だから、河童と河伯を混同し、秦と関係している。
地元の日吉神社に河童の神様を祀るところあり、夏に祇園祭をし胡瓜を供える。
この日吉神社の摂社(本社に縁の深い神社)に新宮神社があり、新宮神社は大己貴と少彦名を祀っている。
日吉神社の末社(本社に付属する小さい社)に黄幡社があり、真幡神社とも言う。
黄幡社は薬に関係する。
更に黄幡社で埴安彦を祭神として祀るところあり、崇神天皇(神武)の時、追討されている埴安彦は、丹波大己貴(陸耳御笠)と協力した少彦名と思えるので、薬に関係する黄幡社は少彦名と関係すると思う。
黄幡社は薬にも関係し、新宮神社の少彦名も薬に関係するので、その両者の本社になるこの日吉神社は秦系の薬に関係する人物(少彦名)の神社と見て良いと思われる。
少彦名も河童も背が低く、いたずら好きも似ており、少彦名は祇園祭の胡瓜、河童は胡瓜好きと、どちらも胡瓜に関係してくるから、河童ー少彦名ー祇園祭に関連したと思われる。
素戔嗚は更に後世で朝廷の作為により祇園祭の祭神にされたのであって、祇園祭はヘブライ系秦の少彦名が祭神と思われる。
河童は私の推測では、治水工事や山津波を抑える人柱で、生贄として捧げた人の霊であり、水神ともされた。
河童の容姿は既に概念として伝わっていたので、見えた霊をその容姿に当てはめたのだろう。
概念の元は、ヨーロッパか中国か分からないが、例えば生贄にする時、頭髪を丸く剃り、海亀の甲羅か平たい石を背負わせて沈めたかもしれない。
また、人間は、孟子の「外患なければ国亡ぶ」の性格があり、誰か一人を悪者にして団結するところがあり、生贄は秩序を乱す者や、身分の低い者や、敵対する者を使っていたので、該当する者がいない場合、普段から妬まれていた者を悪者にし、生贄にしたと思われる。
河童なので、その者の子供を生贄にしたかもしれない。
供養塔が無いので生贄にされた子供の霊は供養されることは無かったのだろう。
後ろめたきは謝らずが本性だから。
もしそうであれば、供養して歴史に残さなければいけない。
人間の本性は今も変わっていないのだからそうであるなら自覚しないといけない。。
歴史を消し去ったのであれば、その死を無駄にしていることになり、河童は自分が何者かも分からず彷徨い続けるのだろう。
この日吉神社は小高い山の上にあり、周りは赤土が沢山あり、中腹には20~30cmの玉石もある。たぶん古墳だと思う。
古墳の上に河童の神様を祀っているから、生贄にした霊をさらに封じに使っているかもしれない。

封じ
神武の兄の三毛入野命は豊後で猿田彦後裔の鬼八を遣り、鬼八の妻の鵜目姫を娶り高千穂へ入る。
そして亥の子祭りで鬼八封じをする。
亥の子祭は亥の子という石を地面に突いて、その窪みに御幣を入れる。
「いーのこ 亥の子 亥の子餅 つかんもな 鬼産め 邪産め 角んはえた子うめ」と唄いながらする。
封じとは、祟り封じであり御魂が動けないように封じることです。
御魂自身が動けないと思い込む、御魂の周りに障害を置き動けなくするなど、そのような思考で行うまじない呪術です。
催眠術の様に「動けない」、「寒い」、「足が無い」「見えない」など思い込ませることで封じてしまう。
宗教にはまって抜け出れないのも思い込みです。
封じが解けないように定期的に祭りなどで「叩かれ、切られ、押し込められ」を受けることにより、思い込みが解けず封じが持続する。
大きな石が上に載っていると思うだけで動けない。
など、思い込みの世界です。
思いを替えるだけですぐに抜け出るのですが、催眠を自分で解くことに気づかないのです。

徐福
徐福は九州で天御中主(BC660年ころ移入)とされた一族の秦(ヘブライ系)と会い、再び中国へ戻り、始皇帝へ秦(ヘブライ)と会ったことを報告する。 
始皇帝も徐福もヘブライ系であり、 どの位の戦力で征服できるか見て来た徐福は、始皇帝に報告し、再度九州に上陸し秦国を建てる。

道祖神
近親相姦を防ぐ為に村境に置き、夜這いをするのは道祖神を越えてからせよの約束と思う。

かごめ唄
かごめ かごめ
籠目紋の伊勢や元伊勢の
籠の中の 鶏は
祀られているだけで、人形と変わらない大神たちは
いついつ出やる
いつ復活できるだろうか
夜明けの晩に
大和統一出来たのに、そのすぐ後に
鶴と亀がすべった
今まで築き上げてきた部族たちが騙された
後ろの正面誰
騙して大和を乗っ取ったのは誰(応神天皇)(後ろは神功皇后)

籠神社      
籠神社は武振熊王の海部が奉斎する前は忍熊王の祖の系統で丹波大己貴と多紀理姫(結婚して菊理姫と言われる)の系統と思う。
これ以前の豊受大神は、クナト系興津姫(大戸比売)であったが、その後多紀理姫(天照大神と猿田彦の子)、その後、武振熊王の海部により宝満の玉依姫が豊受大神となる。(神武の時代の玉依姫とは違う)  
崇神が祟られたとした対象を、匹女として討伐した多紀理姫(菊理姫)と思ったか、それ以前のクナト系の澳津姫(大戸比売)と思ったのだろう。
元伊勢まで豊受大神として迎えに行ったのは、この多紀理姫(菊理姫)と澳津姫(大戸比売)を迎えに行ったと思う。

宇摩志麻遲命  志麻=揣摩(未知を推量する)
十種神宝(催眠の法具)と深く関係、十種の神宝は母の多紀理姫(猿田彦の家系の秦)から受け継ぐ
男なのにシャーマン気質で争いを嫌い避けるから討たれなかった。
戦いが怖いのではなく競い合う人間に絶望していて拘りたくなかった。
神武東征後は、神に仕える祭主であったことを受けて、天皇の為に十種の神宝を用いて鎮魂の法を奉斎していた。
それ故に軟禁状態であり、亡くなった為、宇摩志麻遲の縁者が石見に祀ったのだろう。
鳥は魂を運ぶことから、宇摩志麻遲の魂が鶴に乗って石見に舞い降りたと感じたのだろう。
丹波国多紀郡波々伯部は対鶴の紋―物部神社は日負鶴
埋葬地は味美二子山古墳だろうと思う。

大祓詞の訳
高天原でイザナギ、イザナミが八百万の神達を集めて話し合い
瓊瓊杵尊に国を平和に治めてくれと、ゆだねられ
荒ぶる先住民に神の威厳をもって言い聞かせ、
高天原から荘厳に降りて来られた
国を統一して、高天原に届くほどの立派な御殿を建て
天の神、日の神の御蔭と、自分だけの力ではないと、
平和に治めていく中で
人が増えてくると、神への無礼、破壊、殺傷、人道の罪など色々出て来たので
神業をして神を封じた首枷を除き、穢れを祓い、祝詞を奏上すれば
天つ神はお出ましになり、また御治めになる
国つ神は山々に籠る悪念を打ち下して御治めになる
罪はなくなり清められた。
級長戸辺も厚い雲を吹き放つ様に、
霧を晴らすように、大船が大海に出る様に
従わない者を草薙剣で討払い、統一したのであって
統一の為、誰でもすることで仕方なく、罪では無いよ
亡くなった御魂は、瀬の神が海まで運び、
鳴門の渦の様な神が呑み込み
根の国の門番が受け入れる
そこには速佐須良比売がいて
そこに長い間居ると、身を寄せるところがなく彷徨い
いつのまにか見当たらなくなる(阿波となり蒸発して無くなる)
そして罪もなくなる
祓ひ清められ、神の国だと御治めになられた。

(阿波の入り口の淡路島、阿波に左遷された者は世間から忘れられて消えて無くなる、死国・黄泉国)