時系列類推古代史 ancient

 

下記の古代史は、神話の捏造を解く為だけに、記紀などの文献から、人脈や年代を分解し、人物像から人脈を類推して、陰になった当事者の言い分を察して、神霊世界と密接な古代を、3~4世紀だけを、人物像を当たり前に審察して筋立てた、古代史と神霊世界を書いています。
古代ほど血統を重んじるものです。記紀に詳しく載っていない神話の古代の有名人は血縁で繋がりが有る筈です。その胡麻化された血縁の記紀を手掛かりに、人物像から血縁を類推し、3~4世紀を組直しました。

57年奴国が倭の主要国、 (漢倭奴国王の金印)
147〜189年、 倭国大乱で統一されていなかった
BC4世紀からAD2世紀、 近畿、尾張、出雲、吉備、阿波で多い銅鐸文化
3世紀始め、 銅鐸は各地で故意に割られたので神の系統が変った事を類推できる
3世紀始め、 30か国が卑弥呼を共立して邪馬台国が出来る
239年邪馬台国が倭の主要国、 (卑弥呼は魏に使者を送り親魏倭王の称号を得る)
247年邪馬台国が倭の主要国、 (邪馬台国は狗奴国と戦う) (卑弥呼死す)
266年邪馬台国が倭の主要国、 (男王が立ち、その後、台与が晋へ使者を送る)
銅鐸破壊以降に鏡が重要になり、三種の神器に鏡があるのだから、
皇統が出来たのは銅鐸破壊以降であり、266年以降しか適合しないと類推できる。
九州から畿内にかけての統一王国が出来るのは、266年以降しか適合しないと類推できる。
神武天皇は266年以降に東征し、大和朝廷を立てたと類推できる。

その神武天皇の系統は、祖先は天照大神と高御産巣日の系統に成っていますが、シュメールの菊花紋から類推して、赤ら顔で鼻が高いヘブライ系の猿田彦が入っていると類推します。
猿田彦は九州5部族(幣立神宮5色面)の長であり、瓊瓊杵尊の系統を正統にする為に不都合な人物となるから皇統から外したと推測できます。
神武天皇がヘブライの猿田彦と繋がるとなると、菊家紋も説明がつきます。
猿田彦はヘブライ系であり、BC597年ユダ王国が滅び、日本へ避難したならば、それは約2600年前になります。
2600年前にヘブライの秦系として日本に移住した民であり、日本にて2600年の系統があると言えます。

なぜかき消す事が出来ない程有名な、日霊女、猿田彦、卑弥呼、台与、邪馬台国、菊理姫、饒速日尊、等の出自や名や業績が記録に無いのは、作為した証がそこにある証拠であり、それは瓊瓊杵尊、山幸彦、鵜茅葺不合尊から神武天皇への皇統神話と重複するから抹消したというのが動機と思います。
神武天皇は日霊女(天照大神)や猿田彦の血筋であるのにも関わらず、統一実績のない瓊瓊杵尊系統を皇統にしたのは、景行天皇・倭建命・仲哀天王が九州討伐失敗の要因であった猿田彦末裔の不服従を隠したかったのと、瓊瓊杵尊とは別系統の邪馬台国の繁栄を消したかったのが動機だと思います。 何故ならヘブライや卑弥呼の系統の口伝は完全に消しきれるものではありませんでした。

707年7月と708年1月に、山奥に隠れて禁書を隠し持ち、百日経っても自首しなかった者は刑罰を与えると発令し、713年には各国に風土記を編集し提出させています。
不都合な事を消したという事は、政権に都合良く作為した証拠だという事です。

しかし禁書が残っていても、そちらの正義であって真実とは証明できません。 
伝説も思い違いや、嘘の情報を聞いている方が確立は高いと思えます。
だから神に頼っていた当時の一人一人の人となりを、背景からイメージを想像して、背景と行動に整合性があるように、歴史の流れを筋立てました。

作為の下に埋もれた口惜しさを解きたいと思い、整合性を提案してみます。
それぞれの人物背景は"古代の人物像"のページへ、系図を"系図"のページへ、神と霊媒とまつりごとを”あの夜とこの夜の夜空”へ、ホツマツタエの誤訳を”ホツマツタエ”へ記載しています。

BC660年頃
後に天御中主命とされたヘブライ人(秦系)が宇佐に来た時期を神武天皇即位の日とした。
スコットランド民謡の Auld lang syne の曲は、 ヘブライ人のダンサーたちによってスコットランドに伝わったダンスの中からきているそうです。 その曲にロバートバーンズが詩を入れました。 世界各国で翻訳され、年明けに歌われています。 日本では編曲され詩を替えて「蛍の光」で知られています。
BC210年頃
徐福が九州に来て、秦系(ヘブライ)と遭遇し、秦へ戻り始皇帝へ報告し、戦力を整えて再度九州へ上陸し秦国を立てる
57年頃
魏に対して奴国が主要国
100年~190年頃
倭国大乱
190年頃
卑弥呼を共立し九州~出雲までのヤマト連合を立てる
210年頃
沖縄伊是名島のイザナギとその妹でオナリ神のイザナミが鹿児島に入る。
イザナミ(大日霊女)は後の天照大神(日霊女、向津姫)を産む。
マグマは太陽の欠片であり、日神(イザナミ)が火神(天照大神)を産む。 機内の火明命も太陽の子という意味。
イザナミは220年頃に開聞岳の噴火で亡くなったので大日霊女貴命と言われる。
220年頃
再度卑弥呼を共立して近畿を含む邪馬台国(ヤマト大国)を立て、奈良をヤマトと名付け、大和(畿内)が中心となる。
卑弥呼の時代の出雲の大国主は孝昭天皇で、大国主の妻は世襲足姫(須世理姫)。
大国主は卑弥呼と同族という事を後ろ盾に畿内に影響力を持つ。 
出雲の大国主のヤマト連合へ、機内連合が帰順の証しとして世襲足姫や沼河姫を妃に出す
又、世襲足姫は尾張で出雲の大国主とは別男との間に武御名方を産んでいて、武御名方は元々信濃なので出雲には口出ししないと約束する(伊勢の科戸の風と科野の繋がりが強い)。
又、子孫は春日に住み、神武東征の折、子孫の武甕槌󠄀が神武を受入れに同意した。
230年頃
日矛が山陰伝いに近江辺りに来て、遠戚の秦(ヘブライ)を頼り住みましたが、先住のクナト系民に祖国秦(辰韓)の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許された。(因幡の白兎)
240年頃
イザナミの子の天照大神(日霊女・昼女)は九州の五部族(幣立神宮の五色面)の長の秦(ヘブライ系)の猿田彦と結婚。
猿田彦の妹に磐長姫がいる。
磐長姫は瓊瓊杵尊に振られたのではなく、猿田彦を騙し討ちにした瓊瓊杵尊を拒んだ。
日霊女は市杵島姫、多紀理姫、田心姫(玉依姫)を産む、三女とも霊媒の素質があり、当時は霊媒一人に付一国ある位、霊媒の言葉で政事(まつりごと)をしたので、
260年頃、市杵島姫は大和の饒速日の妃に、
多紀理姫は丹波の大国主(大己貴)の妃に、
玉依姫は鵜茅不合尊の妃に行った。
248年頃
出雲はヤマトとクナトの共存の地であったが、ヤマト系の神である卑弥呼が亡くなったことで、出雲のクナト系民と吉備から入って来たクナト系のスサノオに攻められる。
口うるさい大国主が居なくなったので、スサノオが男王となる。
ヤマト系の王がクナト系の王に国譲りをしたと言い換えられました。
ちなみに草薙剣は草を刈り込むように内反りの方に刃が付いている剣であり、剣の数え方は1本2本ではなく、一握り二握りで、十握剣は十本の剣と思います。
250年頃 
スサノオ(孝元天皇)(男王)が台与(大市姫)と結婚し台与が女王となる。
市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味。(市場=意識を交換する→今は物を交換する)
250年頃
瓊瓊杵尊勢力が久留米へ侵攻し、海人の海幸彦(海人の王)が遣られ、海幸彦の子を身籠っていた豊玉姫は騎馬の山幸彦(騎馬の王)の妻となり、産屋が間に合わなかった。
だから鵜茅葺不合尊は海幸彦の子であり、神武天皇は山幸彦の系統ではない。
古代は王のことを彦と言っており、海人の王、騎馬の王、猿田の王という意味。
瓊瓊杵尊勢力が高千穂へ侵攻し、鈿女を使って猿田彦をだまし、体をナマコにして四方に埋めた。
鈿女の子孫の猿女にナマコだけ従わないのはこの事。
「見ざる聞かざる言わざる」、猿女が鎮魂の儀礼の役になる。
猿田彦が亡くなり、第一次九州連合の力が弱まり、瀬戸内の秦勢力が弱まる。
250年頃
スサノオが出雲を支配するようになると、備後の吉備勢力(辰韓)が東広島市西条辺りまで西へ進出していき、やがて広島市辺りまで進出してきました。
神話にスサノオの悪行の話があるが、大陸民の得意とする自分の蛮行を他にすり替えた話です。スサノオの悪行は九州や安芸、吉備、畿内で辰韓勢力(新羅)が起こした蛮行です。
270年頃
市杵島姫の霊媒性が優れていた為、饒速日が畿内の主要勢力に成る。
畿内を取れなかった出石系大綜麻杵の孫の彦太忍信(伊迦賀色許売と孝元天皇(スサノオ)の子という偽証)が紀伊の名草戸畔を遣り、紀伊を取る。
280年頃
秦勢力が弱まったので、吉備勢力は東は畿内へ進出し、西は安芸の廿日市辺りまで進出してきて、東は饒速日が遣られ、西の廿日市や五日市の秦系やヤマト族は征服されました。市杵島姫は畿内から逃げる途中廿日市辺りで遣られました。
生き残った秦系やヤマト族は高地へ追いやられました。

饒速日の母は、秦系と尾張(クナト系)の子の大市姫(台与)であり、父はスサノオ(孝元天皇)。
スサノオの母は辛国息長大目(赤留姫)であり、父は磯城県主大目でクナト系でアラハバキ神系。
台与は伊勢の天照大神で出身は多度神社のある多度
台与を伊勢に移し、畿内の天照大神は神武の守り神の日霊女・向つ姫・イザナギの娘。
崇神天皇は向津姫を最高神として祀りましたが、不吉な事が起こるので、クナト系の台与を最高神として台与の名を使わずに天照大神として、台与が祀ってあると想像する多度大社のクナトの地と同じ伊勢に祀ったのだと思います。
吉備は考安天皇の流れの三系統でクナト系(倭迹迹日百襲)、秦系(彦狭島)、新羅系(吉備津彦)が居る。
考安天皇の父は卑弥呼の時代の出雲の大国主(孝昭天皇)。
神武は叔母の市杵島姫が吉備に遣られ、畿内に吉備が台頭して来たので、仇討を名目に東征する。
その為神武の祖母の日霊女(後の畿内の天照大神)の神霊を守り神として群行する。
宇佐に寄り市杵島姫の父方である秦の協力を得、秦の太玉命と東征し、広島で市杵島姫を弔い、吉備勢力側だった安芸津彦に協力要請し、安芸津彦と共に吉備勢力を討ち、安芸津彦は安芸を貰う。。
岡山でも新羅系吉備族を討伐した。
吉備討伐に協力した者が吉備勢力側だった吉備津彦で、蛮行新羅の鬼退治をした所です。吉備津彦は吉備を貰う。
尚、秦系の太玉命は神武東征後、太秦、徳島、千葉、筑波等貰う。
290年頃
神武は大和に入った時、敵と見なされ、攻撃を受けたので、吾平津姫の山祇の縁を頼って南紀から入る。
大隅の隼人山祇=紀南の熊野山祇=どちらもクナト山祇の縁であるから紀南を頼りに入る。
途中、名草戸畔を遣った事に成っていますが、戦力が落ちているのに、紀南へ行く途中で、わざわざ名草戸畔を遣る動機がありません。
ましてや、名草戸畔は紀氏と思われ、饒速日勢力側であり、神武東征の水先案内をした紀氏珍彦もおり、なおさら神武が名草戸畔を遣る動機がありません。どちらかというと饒速日や神武の陰になってしまった彦太忍信に動機があります。
その頃大和は宇摩志麻遲が主王で、長脛彦が副王であり、宇摩志麻遲の父は丹波国多紀郡の大国主(大己貴)で、母は日霊女と猿田彦との娘の多紀理姫であり、多紀理姫は大己貴と結婚して菊理姫と言われる。
菊理は多紀理姫の父である猿田彦がヘブライ系であり、その紋を称して菊理姫と言われる。
「草の主は菊の異称」=民の主は菊の紋章。
宇摩志麻遲の妹は下照姫で葛城の太陽神といわれ台与の次代をしていた霊媒。
宇摩志麻遲の兄は味鋤高彦根で一言主とも言われ神武と宇摩志麻遲と下照姫の仲裁役をして後に八咫烏とされた。
宇摩志麻遲は霊媒性があるため、兄の味鋤高彦根が王にならず、宇摩志麻遲が王になった。
仲裁内容は吉備の新羅勢力を討伐してくれたので、饒速日の娘の伊須気依姫の婿に入る条件で神武を受入れた。そして味鋤高彦根は自分は四国へ隠居するとした。
大和朝廷成立。
崇神天皇(神武)が邪馬台国時の大己貴(陸耳御笠)と多紀理姫(菊理姫、匹女)討伐命令を出す。
丹波大国主(大己貴)は陸耳御笠とされ、妻の多紀理姫は菊理姫ともいい優れた霊媒でヘブライ秦系が入っている。
後に匹女とされ、夫婦共、大江山の鬼とされた(山窩にも信奉される菊理姫)、そして菊理姫は科野を頼り、科戸の尾張へ逃げたのではないか(味美白山神社古墳)、そして葛城の太陽神である下照姫は、名草戸部亡き後の紀伊国造名草彦の妻・名草姫となる。【草の主は菊の異称】(草や繁木は人混みの意で使われたと思う)
そして、宇摩志麻遲は崇神(神武)の下に軟禁され鎮魂の法を奉斎、味鋤高彦根は高知に隠居、日子坐王は陸耳御笠を討伐に行ったとされているが、従わないので殺されている。
330年頃
景行天皇が豊後の猿田彦末裔の打猿討伐 失敗
350年頃
倭建命が熊襲討伐失敗
370年頃
仲哀天皇が熊襲討伐の為、神功皇后に協力要請するが拒否されて失敗
神功皇后の母は葛城系であり、父は磐長姫の婚姻の例え同様、息の長いヘブライ秦系です。神功皇后は、葛城よりもヘブライの知力の統治を望み、葛城系統治から、大和朝廷成立時のヘブライ系統治に戻そうと、第二次九州連合を隠起しようと画策していました。
390年頃
神功皇后は娑竭羅竜王との子の応神天皇を仲哀天皇の子として畿内に進出
応神天皇の妹の八幡は優れた霊媒で名を轟かす。
八幡の妹の頗梨采女と牛頭天皇の子が八王子いて、強靭で蘇民将来伝説で応神天皇批判が出ないよう大和一帯を抑え込む。
出石系(辰韓)伊迦賀色許売の後裔勢力は神功皇后勢力と協力して再び紀国を奪い取ったので、270年頃の名草戸畔殺害の祖先の所業を290年頃の神武の所業とし、祖先の罪を消したものと思います。
仁徳天皇は、九州王朝の力と、庶民が貧しく低賃金で使えたので大古墳を造れた。

阿波の違和感
弥生時代~古墳時代は霊媒による託宣によって、“まつりごと”が行われていたと思います。邪馬台国は30もの国が卑弥呼を共立して出来た国です。
その30もの国が収まる土地は尾張~九州までの広大な土地だと思います。
各国には優秀な霊媒が居て、その託宣によって王が国を治めていましたが、卑弥呼という超優秀な霊媒の力には誰もが平伏する状態だったので、30もの豪族を一つにまとめることができました。そして卑弥呼は各豪族を納得さすために各豪族の祭祀を融合して祭祀を行ったと思います。円墳や方墳を融合して前方後円墳も、これ以降から作られるようになったと思います。
卑弥呼の部族の王は大国主となりましたが、それは機内や尾張の大部族の不満でもあったと思います。卑弥呼の死後、偉そうにしていると思われていた大国主は失脚したと思います。
それが、スサノオの出雲侵攻だと思います。
そしてスサノオが男王となりましたが、また他部族から不満が続出して、台与が女王となりました。
これほど古代は、神の言葉が最重要な時代だったと思います。
そして台与の血筋の饒速日が男王になり、そのころ神武が東征したのだと思います。
饒速日は邪馬台国の最後の王なので大国主とか大物主とも言われました。
その後、各部族の神の障りを鎮めるために、阿波が選ばれたと思います。
罪・穢れは、瀬津比賣という瀬が大海原に持ち出し、速開都比賣という渦潮が呑み込み、気吹戸主という門番が黄泉の国へ誘い、速佐須良比賣という神に見守られながら彷徨い続けて、泡と消えて行くのだと思います。
その気吹戸主と速佐須良比賣のところを阿波忌部が担ったのだと思います。
淡路島から阿波に入ると在るのが大麻比古神社です。祭神の大麻比古大神とは阿波の忌部氏の祖先の神様です。
大麻比古神社は阿波国と淡路国の総産土神として崇敬されています。
忌部氏は奈良県橿原市忌部町を本貫として、出雲忌部、紀伊忌部、阿波忌部、讃岐忌部があります。
忌部氏は朝廷における祭祀を担った氏族であり、また阿波忌部氏は朝廷に麻や木綿を収める品部でもありました。
忌部氏は、各部族の神が荒魂にならないように分魂をして、その祭祀を受け持っていたのではないでしょうか。
阿波に居た神々が各地に移住して、別々の部族に成ったというのはしっくりきません。

筑紫王朝又は九州王朝と大和王朝
神武東征時は筑紫と大和は一つに成ったが、
かつて猿田彦が居た豊後で大和朝廷に帰順しない者達が増え、景行天皇が征討したが、落人が肥後に逃走
肥後で反抗勢力が起こり、ヤマトタケルが征討に行くが失敗
再度仲哀天皇が肥後征討に行くが神功皇后の協力を得られず失敗。
神功皇后は九州王朝成立に向けて裏で動く。
新羅が神功皇后に降伏したのではなく、元々神功皇后は新羅と熊襲と親密だったから、隠すために新羅征伐により降伏したという話が必要になった。
5世紀末~6世紀始めにかけて百済の弱体と共に大和朝廷弱体期に近江毛野の新羅攻めを阻止するために磐井の乱が起きる
毛野の祖の神武天皇と筑紫は懇親の仲だったが、筑紫は今では九州王朝派になり、今までの大和朝廷の筑紫攻めは許せず、又、以前神功皇后と応神天皇の中央進出の後ろ盾をした熊襲と新羅は、九州王朝を確固たるものにしようと、大和朝廷の交易切り離しを計った。

海幸(海洋民族)、山幸(内陸民族)、クナト、ケルト、エジプト
12000年前鹿児島の丸ノミ型石斧、 6000年前丹後半島の丸木舟、 7500年前千葉市川の刳り船、 等、 刳り船を外洋から来た船としたら、同じように北海道から沖縄まで刺青の風習があるので海洋民族も日本全土に移入したと思いたい。 
ポリネシアのカヌーに乗る漁民は「日本は近いよ、簡単に行けるよ」と言う
他、北方からの移入者アイヌが入って来るがクナトと共存する
中国は刺青の風習が無く、刑罰に使う為、海洋民族ではない
刺青の風習の有る雲南省、呉、越、朝鮮南部、等は海洋民族の流れ
 雲南省は中国の流れではなく、海洋民族が雲南省まで移入してきた
 「倭人は呉の太伯の末裔」は、中国からはそう見るが、海洋民族から見れば勝手に中国に取られ呉とされた。

随時東南アジア各地から海路にて移入
BC7世紀に刺青の風習のないヘブライ系秦が移入
 内陸民族とは違い、エジプト、ケルトの民(星辰信仰、巨石信仰)
BC3世紀に刺青の風習のない秦(徐福)が移入
 徐福はヘブライ系と内陸民族の混成
AD3世紀に刺青の風習のない騎馬民族が移入
 内陸民族(山幸)
AD4世紀始め伊須気依姫が大久米命の刺青に驚く
 大和では刺青の風習は無くなっている。(伊須気依姫も父の饒速日も東征したのではなく大和にいたから刺青に驚く)
AD5世紀始め安曇連浜子に刺青刑
 大和では罪人に刺青を入れるようになる
瓊瓊杵尊・山幸彦(内陸(騎馬)の王)系統神話に都合が悪いけど当時消すことが出来なかった重要人物
卑弥呼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・海人のヤマト族
出雲大国主・・・・・・・・・・・・・・・・海人のヤマト族
猿田彦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヘブライの秦で瓊瓊杵尊に騙し打ちされた
磐長姫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヘブライの秦
海幸彦(海人の王)・・・・・・・・瓊瓊杵尊に遣られる
素戔嗚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クナト族で畿内の王統と同じ族
台与・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾張クナト族
市杵島姫・田心姫(玉依姫)・多紀理姫(菊理姫・匹女)・・・海人とヘブライの秦 の混血
陸耳御笠(大己貴)・・・・・・・・・ヤマトとクナト族 の混血
宇摩志麻遲・下照姫・・・・・・・・ヤマトと秦とクナト族 の混血


歴史を知る本分
心はどこから来て、なぜ、移り変って行くのでしょうか。
生まれつきの性質を性分とか性根と表現しています。
「三つ子の魂百まで」と表現されます。 
「人は変われる」と言いますが、それは元々人の情けがわかる人が誤った道を行った後、元の道に戻るのであって、元々人情がない人は、たとえ良い人と言われようとも、ある場面で性質が出るのです。
数千年、数万年の経験で養った性質は、一生では変わらず、何回生まれ変わってもなかなか変わりません。実際に何回生まれ変わっても、犬が犬であるように、猫が猫であるように、感覚がなかなか変わりません。 
数多く生まれ変われば善い人に成るのであれば、人の世が荒んで行く訳が有りません。
生まれながらにして心は皆違います。
たとえ、経験が少なくても、そこの風土を受けて、人は善くも悪くも変わって行きます。
元の人の心とは、どんなものだったのでしょうか。
それは、はかりごとのない、ただの記憶だけだったと思います。
しかし、人類の歴史が繰り返されたのを見れば、誰もが鬼の心を持っているのです。
DNAスイッチは受け継がれる事が明らかになっています。
動植物の社会は事実経験で構築されていますが、人類の社会はもっともらしい口実で構築されています。
事実経験で構築されていないから、一人一人が自分の地位を自分で見誤って、社会は口実に洗脳され傲慢な方へ傾いて行くのです。
動植物の社会は、はかりごとも秩序も有りますが、動植物はそれに適応する法律を作りません。
人類は法立を作り続けなければなりません。
飛行機事故の調査の様に、人類が最初から今まで、あまねく事実を表ざまにし続けていたら、動物の様に、人それぞれの生き方を自分の責任で行動する様に成っていたのではないでしょうか。

本当は誰しも、心は素晴らしい感動を求めているのに、それが手に届かないと思うと、人を陥れ、人の幸せを奪い、自分は勝ち上がったと自慢したところで、そこには心の感動は有りません。
記憶と知恵を持った人類の心は、何に感動するのでしょうか。
感動を求めるのではなく、力を持った人類は穏やかになる事を学ばなければいけないのだと思います。
心が安心したときに初めて、はかりごとをしなくなるから、植物が酸素を発生し、酸素をエネルギーにして移動できる動物が発生し、その環境を創った自然と真に向き合える様に成ると、そこに八百万の神を見い出せるようになり、その些細な感動が生命の心の感動であり、歌や踊りが自然と湧き出るのだと思います。
しかし、近代は、歌や踊り等の2次的な物から感動を求めるから、時が過ぎれば心は満たされなくなり、刺激を求めるように成ってしまうのだと思います。