山窩 yield

 

下記の古代史は、神話の捏造を解く為だけに、記紀などの他人が書いた文献から、陰になった当事者の言い分を類推して、神霊世界と密接な古代を、3~4世紀だけを、人物像を当たり前に審察して筋立てた、古代史と神霊世界を書いています。

大和朝廷に媚びなかった邪馬台国の一部の末裔
丹波大己貴は、崇神天皇の御代、大江山の鬼、陸耳御笠とされ、追討される事になる。
多紀理姫は丹波大己貴の后に成ったことで、菊理姫と呼ばれ、後に匹女とされた。 
大己貴と菊理姫の民の一部は大和朝廷に服従せず、山中にひっそりと暮らした者たちが居る。 
彼らも土蜘蛛と言われ、追討される。 
山窩や山内と言われた人達がいるが、この人たちが彼らの一部ではないかと思う。
彼らは以前の邪馬台国の人達で、菊理姫を信奉していた人達だと思う。 
白山神社が全国にあるのは、この民の思いまで消すことが出来なかった所以ではないかと思う。
京都では700年代町に住んだ人々が貧窮者・病人・孤児を河原や山に捨てるようになった過程と、他勢力から隠れ住んだ人たちの過程の違いは、状況が変わればここまで変わるのか、民族性なのかは判らないが、状況があまりにも違いすぎる。
彼らは大和朝廷になる前の、12000年前の奈良竹内遺跡、福知山武者ヶ谷遺跡等、代々続いていた人達だと思う。
彼らが大和朝廷に屈服しなかった人々だとしたら、 人は戦わなかったら、服従しなかったら、いずれ身を寄せるところがなくなり、彷徨い続けて、泡と消えて、何も残らなくなるのだろうか。 
1700年耐えて、1700年経っても、神が真実を明らかにしてくれることも無く、跡形もなくなってしまう。 
無口な者はいつになったら・・・、 弁が立つ者はいつになったら人を敬う事が出来る様になるのだろうか。

山窩(サンカ)の記事
広島では、昭和20年代末まで確実にやってきていた。
太田川の支流である三篠川方向が祖母の里なのだが、この三篠川に夏になると毎年やってきて、
農家の藁小屋を宿にして、川魚を穫り、素焼きにして、物々交換していたという。
1週間位いると次の上流の集落に移動していく。
殆ど里人と話す事はなく、穫った川魚を交換する際にも、口など効かなかったらしく、
交換する物として何が欲しい等と言うことさえ語らなかったらしいのだが、
里人の方がその辺りは心得ていて、各家ごとで交換する物、米とか野菜とか、お金とか
長年の習慣で、決めていたのだという。
悪さをしない、おとなしい、と云うことで、誰も咎めることはなく、
むしろ、彼らが来るのを楽しみにしていたらしい。
戦後、川が荒れ、魚が捕れない時期があったらしく、その時には竹細工物を作っていたという。
漁法は千本針流しという方法で、針をたくさん付けたテグスを流す方法で、かなり古い漁法らしい。
傍で子供達が水遊びなどしても、全くお構いなしで、知らん顔を通していたという。
父親が子供の頃、彼らの宿を覗いたことがあったらしいのだが、全く取り合わず、
文句も言わなかったという。
普通は4人ほどの家族で、一番多いときで二家族7人で来たこともあったという。
昭和30年代に入るともう来なくなったという。

山内(さんない)の書籍
山県郡加計村の鉄山師は戸河内村などの奥深い山で踏鞴を経営していた。
踏鞴には付属の鍛冶屋も設けられており、これらの製鉄作業場を山内(さんない)とよんだ。
踏鞴では砂鉄を鋳物銑(せん)に溶解する作業が行われた。
ここでは全体の作業を指揮する村下(むらげ)、村下の補佐役で炭の吟味をする炭坂(すみさか)、天びんふいごを踏む番子(ばんこ)、炭を焼く山配(はい)・山子(やまご)などの労働者が働いていた。
また鋳物銑を精錬する鍛冶屋では、大工・佐下(さげ)・手子(てご)と、鍛冶用の炭を焼く小炭焼などが働いていた。
山内には彼らの家族も一緒に住んでおり、政ヶ谷踏鞴鍛冶屋では1787年に321人が暮らしていた。
うち女性は145人であった。
彼ら労働者は、日々の食糧米などを勘場(かんば)(山内の事務所)から借りて生活し、その借米・借銭と彼らの賃金は盆と暮に決済され、そのとき条件によっては他の山内に移る場合もあった。
しかし多くは鉄山経営者に隷属し、自分はもちろん子や孫に至るまで、終生同じ経営者の山内で働いたようである。
「山内の者無用に出山仕るまじく、地下の衆を山内へ引き込み申さず事」という山内掟にみられるように、山内では近くの百姓集落との交流は制限されていた。
また「諸商人山内へ入り込ませ申さず」ことを原則とし、やむおえない場合は荷物を改めて許可した。
また「僧侶と俗人に限らず何人にても一宿も仕まつらせず」、医者も治療が終わればただちに送り返す掟が徹底されていた。
こうした掟は11歳から70歳までの男子に読み聞かせ請印をとっているから、男子は11歳になると山内の仕事に従事させられたようである。
一人前になると結婚することができたが、それも経営者に届け出て許可を得なければならない規則となっていた。
板ヶ谷鍛冶屋山内には明治初年、19の家族が居住していたが、その妻の出自をみると、2人が農、1人が商で、ほかはすべて山内出身であった。
同じ山内やほかの山内の女性と結婚する場合が多かったのは、近くの農民と交流が制限されていた為だけではないだろう。
なによりも彼らは鉄山経営者の所有物とみなされており、ある種の差別意識もあって農民に敬遠されたのではないだろうか。
ともかく彼らは一生山内で働き、生活し、そして死を迎えた。
戸河内町餅ノ木山内の彼らの墓石は、多くは破損・整理統合され、今や忘れ去られようとしている。
鉄山経営者たちは、豊富な森林資源を求めて山中に踏鞴・鍛冶屋を移設していった。
それを受入れる村は企業誘致に似たようなところがあった。
その理由は山手銀(山の使用料)のみならず、鉄荷の運搬稼ぎ、木炭の供給によって、村が潤った。

たたら製鉄 (廿日市・大竹・厳島の歴史より)
たたら場と鍛冶場という二つの作業工程がある
たたら場では、「一に土、二に風、三に村下」。
炉の材料となる釜土が一番で、続いてふいご、村下の技術
土(炉)は砂鉄に含まれるリンや硫黄などの不純物を取り除く役目を果たしている。
鞴(ふいご)は炉内の温度を1500度前後に保つため風を送り続ける。大型の天秤鞴を内番子が四昼夜踏み続け、最も重労働である。
村下は、土の選定、築炉、操業に際しては炉内の変化に応じて砂鉄の量や炭の量など一切の指揮を執っていた。
鍛冶場では、炭素分が多いため固くてもろい銑鉄は、佐下場で溶融され炭素分が減らされる。本場で少しのケラを加えて再溶融される。こうして出来上がったものを熱しては槌で叩くという作業を繰り返し、最後に大きな塊を小さく分割し、割鉄、包丁鉄、釘鉄などの製品に整形していく。

菊理姫
邪馬台国の時代、
菊理姫とは多紀理姫が丹波大己貴と結婚したことにより菊理姫と言われるようになった。
菊はヘブライの紋章であり、猿田彦はヘブライであり、多紀理姫は猿田彦の娘と思う。
平安後期の天皇に教授する学者の歌で、
「かばかりの匂ひはあらじ菊の花むべこそ草のあるじ成りけれ」
要約すると、「草の主は菊の花」という事ですが、民の主は菊の紋章と云う意味が隠れていると思う。
ヘブライは秦系であり、秦系の猿田彦と日霊女(天照大神)の子が三女神であり、
市杵島姫(狭依姫)は饒速日(開化天皇)の后に、湍津姫(玉依姫)は鵜茅葺不合尊の后に、多紀理姫(菊理姫)は丹波大己貴の后へ行った。
大和朝廷の時代、
崇神天皇(神武天皇)は服従しない丹波大己貴を陸耳御笠として、その妻菊理姫を匹女として大江山の鬼として討伐する。
邪馬台国時代の民で後に山奥に隠れ住んで山窩と言われた人々にも信奉される菊理姫は科野を頼り、次に科戸の尾張へ逃げたのではないか(味美白山神社古墳)
邪馬台国時代の名が多紀理姫
后になった名が菊理姫
大和朝廷時代の名が匹女

味美白山神社古墳の宇摩志麻遲命は丹波大己貴と菊理姫の子だろう。
石見の物部神社は宇摩志麻遲命が鶴に乗って舞い降りたとなっているが、鳥は魂を運ぶことから、宇摩志麻遲の魂が鶴に乗って石見に舞い降りたと表現したのだろう。
丹波国多紀郡波々伯部の波々伯部神社の神紋は対鶴―物部神社は日負鶴

三女神がヘブライ系と思う理由
湯葢道空が厳島客人社壇を再興し市杵の島の大神を勧請し、さらに宮島の対岸の海老園に厳島神社の摂社として塩屋神社の社殿再興し猿田の彦を神祀ったとあるから、市杵島姫は客人神であり、摂社に猿田の彦だから同族と思える。
客人(マロウド)とはマレな人の意味で白人とのハーフと思う。