下記の古代史は、神話の捏造を解く為だけに、記紀などの他人が書いた文献から、陰になった当事者の言い分を類推して、神霊世界と密接な古代を、3~4世紀だけを、人物像を当たり前に審察して筋立てた、古代史と神霊世界を書いています。
古代ほど血統を重んじるものです。記紀に詳しく載っていない古代の有名人は血縁で繋がりが有る筈です。その胡麻化された血縁の記紀を手掛かりに、人物像から血縁を類推し、3~4世紀を組直しました。
磐長姫
秦系(ヘブライ)の姫で、環状列石(岩長)に関係する姫ではないか、ブサイクで瓊瓊杵尊に断られたのではなく、猿田彦を騙し討ちにした瓊瓊杵尊に服従するなどプライドが許さず、また拒否できる程の部族の一員と思われる。
ブサイクではなく、 顔が細く、鼻が高く、笑うと歯茎が出るフィフィのようなエジプト系美人だったのではないか。 やっぱり、大笑いして歯茎が出て断られたかも。
石はレコードのように磁気記録が安定しやすい物体で、列石に囲まれた磁波が、星辰信仰の霊媒にとって、何らかの波長を受取りやすい神聖な場に保つのではないかと想像します。
星の波長を受取る想いか、亡くなった魂を星の世界へ送る想いか、列石がアンテナや清めの代わりをしていたのではないかと想像します。
それが神社の境内の周りにある玉垣に成ったと思います。
物部 (ものに通じることに長けている部族)
物部とは、神武東征後にヤマト連合の主要部族を、機内連合がひとくくりに物部と称したと思いますが、その中でも重要な部族が秦系であり、物部の十種の神宝の法を用いる。
見えない意識を”もの”と言い、ものに通じることに長けている部族
卑弥呼は物部のヤマト族(ヤマトと秦のハーフかもしれない)。
紀元前660年頃 ヘブライ系秦の、「天御中主」と後に命名された民が移入し、その後裔に高千穂を中心とする九州の五部族(五色面)の長となる猿田彦、環状列石に関わるエジプト系美人の磐長姫などいる。
十種の神宝とは、通常の意識から離れ、潜在意識に移る催眠術の法具、またはその儀式の場を表すと思うのです。催眠術はエジプトや中東由来だと思います。それが縄文の祭祀と融合し、弥生時代に成立したものと思います。
【ひふみよいむなやこと にのおとふるべゆらゆらかくいのりてせば まかるともさらに生きなんと】 その意味は、(ゆらゆらと神懸かりすれば、霊媒を通して亡き人と話ができる)
、 又は、十種の神宝とは、鎮魂の法を行う時の祭りの場を表すのだと思います。 【十種大祓の本意は元に戻すことだと思います。】
その場の形は
澳都鏡=遠くを映す凸面鏡(過去の本心を知る為)、
辺都鏡=近くを映す凹面鏡(現在の本心を知る為)、
八握生剣=八人の剣を携えた者(邪気等邪魔を入れない為)、
生玉=生きている人の魂(言い分を聞き説得する為)、
死反玉=あの世の人の魂(言い分を聞き説得する為)、
玉足=応じる魂(素直な魂に協力してもらう為)、
道反玉=背く魂(何もかも吐き出す為)、
蛇比禮=偉大な神霊の依り代(場に畏怖を表す)、
蜂比禮=見抜く神霊の依り代(誤魔化しが出来ない)、
品品物比禮=八百万に宿る神霊の依り代(神霊の知見の下)
これらが整いて鎮魂の法を執り行うのだと思います。
神聖な場を設けて、無念や怒りの魂を招き入れ、語り、心を解くのだと思います。
物部は軍事部族ではない。 BC6世紀ころからの星辰崇拝部族であり、 後にBC3世紀に秦系(徐福)の移入がはじまり、力を持ったため強大になったのだと思う。
【いつき奉りたまふなづけて石神大神と申奉り】(巨石信仰)
石上神宮
剣に籠る魂を鎮め、神として祀り味方に就ける
神を奉る神社を武器庫だと何故思い込むのだろうか、作為や誤認を、不確かにして、根拠と言い換え、証拠としている。
十握剣は十本の剣という意味だと思います。剣を数える時、1本2本ではなく、一握り二握りと言ったと思います。
猿田彦
白人なので怒ると顔が赤くなり、猿田族と言いました。それは紀元前660年頃移入したヘブライ系秦の、「天御中主」と後に命名された民だと思います。それから宇佐の白兎、山王信仰の猿、稲荷信仰の狐、星辰崇拝の妙見信仰と広まりました。磐長姫を嫁にしていれば瓊瓊杵尊は長く続いたのにと言われたのは、このヘブライ秦の知力によるものと思います。だから瓊瓊杵尊の系統は早くに絶えたことも、ここで言っているのです。
猿田彦について、「客人社壇を再興し、市杵の島の大神を勧請し、厳島神社の摂社として猿田の彦を神祀る」、とありますから客人神社の摂社の祭神が猿田彦だから猿田彦も市杵島姫も客人神であり白人とのハーフと思います。
猿田彦は高千穂を中心とする九州の五部族(五色面)の長であり、ヘブライ系であり同族に環状列石に関わるエジプト系美人の磐長姫などいる。
菊花紋はシュメールのヘブライの紋章であり、猿田彦はヘブライであり、平安後期の天皇に教授する学者の歌で、「かばかりの匂ひはあらじ菊の花むべこそ草のあるじ成りけれ」要約すると、「草の主は菊の花」という事ですが、民の主は菊の紋章と云う意味が隠れていると思います。
ヘブライは秦系であり、秦系の猿田彦と日霊女(天照大神)の子が三女神であり、市杵島姫は饒速日(開化天皇)の后に、湍津姫(玉依姫)は鵜茅葺不合尊の后に、多紀理姫(菊理姫)は丹波大己貴の后へ行ったと思います。
同時代に瓊瓊杵尊が居て神話の系統とは重複してしまいます。
瓊瓊杵尊勢力が高千穂へ侵攻し、鈿女を使って猿田彦をだまし、体をナマコにして四方に埋めたのだと思います。
鈿女の子孫の猿女にナマコだけ従わないのはこの事が隠されていると思います。
「見ざる聞かざる言わざる」、猿女が鎮魂の儀礼の役になる。猿田彦が亡くなり、第一次九州連合の力が弱まり、瀬戸内の秦勢力が弱まる。
神武の兄の三毛入野命は豊後で猿田彦後裔の鬼八を遣り、鬼八の妻の鵜目姫を娶り高千穂へ入る。そして亥の子祭りで鬼八封じをする。亥の子祭は亥の子という石を地面に突いて、その窪みに御幣を入れる。
「いーのこ 亥の子 亥の子餅 つかんもな 鬼産め 邪産め 角んはえた子うめ」と唄いながらする。封じとは、祟り封じであり御魂が動けないように封じることです。御魂自身が動けないと思い込む、御魂の周りに障害を置き動けなくするなど、そのような思考で行うまじない呪術です。催眠術の様に「動けない」、「寒い」、「足が無い」「見えない」など思い込ませることで封じてしまう。宗教にはまって抜け出れないのも思い込みです。封じが解けないように定期的に祭りなどで「叩かれ、切られ、押し込められ」を受けることにより、思い込みが解けず封じが持続する。大きな石が上に載っていると思うだけで動けない。など、思い込みの世界です。思いを替えるだけですぐに抜け出るのですが、催眠を自分で解くことに気づかないのです。
かつて猿田彦が居た豊後で大和朝廷に帰順しない者達が増え、景行天皇が征討したが、落人が肥後に逃走、肥後で反抗勢力が起こり、ヤマトタケルが征討に行くが失敗する。
縄文人とヘブライと神武天皇
縄文人は、遺跡を見ると、1kmと離れていない距離で、全く違う部族が暮らしていたようです。
そのような争いの無い時代は、1万年以上続いたようです。それは戦いの痕跡が発見できないことから類推されます。それは世界に類のない珍しいことです。
アッシリアに攻められたヘブライが、BC660年頃から随時、日本に移入してきました。彼らは金属武器を持ち、圧倒的な強さで移入してきました。
日本は火山列島であり、火山列島特有の磁場は、多くの霊媒を作ったと思います。
その霊媒は、人や動物や植物の意識が読め、更には過去の意識も読めます。現在の意識の相互作用から現象化した映像を見ることができ、未来を予想します。縄文人は、神のような霊媒から教わる知恵によって、戦って勝つという事の無意味さを感じていたのだと思います。
更に海洋民族である縄文人は海に境界線を引くという考えは無く、海には魚が豊富で、隣で他人が漁をしても構いません。
内陸民族は大陸に住んでいても、境界線を引かなければ、見える獲物を他人に取られるという感覚を持ちます。大陸という狭い所に住んでいるのです。更に侵略されるという疑いが強くなり、隣接する他民族の男系を粛清します。領土を広げるたびに他民族と接し、粛清を繰り返します。その繰り返す経験によって残虐性を帯びるように適応放散したのかも知れません。男は皆殺しにされ、女は犯される。だから戦争は不可欠なものになったのでしょう。
そのような土地争いで、BC700年頃からアッシリアに攻められつつあるユダは日本にも逃れて来たのでしょう。
海路で東の果てに来たヘブライは安全に日本に入りましたが、大陸経路で東の果てを目指したヘブライの男は皆殺しにされ、大陸民族とヘブライ女性とのハーフが生まれ、女系ヘブライは、晋に飲み込まれたのかも知れません。後に朝鮮半島の南東に逃れた晋の女系ヘブライは辰韓と言われたのだろうと思います。海路で日本に来たヘブライは秦と名付けました。晋、辰韓、秦、とどれもシンという発音ができます。女系ヘブライに似ているから、秦は大陸人(徐福)が後から付けた名前でしょう。
海路で来たヘブライは、侵略の意思もありましたが、縄文人は武器も持たず見みすぼらしく、しかも馴れ馴れしい縄文人を見て、ヘブライは優越感を持って安心したでしょう。
しかし、縄文村の霊媒は、ヘブライが来ることも、どのような考えの人達かも、解っていました。ヘブライは縄文人と意思疎通をしていくうちに、縄文人の霊媒の神通力に気づき、神の力だと思いました。ヘブライは侵略することは失礼にあたると、尊敬の念を抱きました。そして霊媒はヘブライの知力を素晴らしいと思い、縄文人主導で、縄文の祭祀とヘブライの祭祀を融合して共生しました。だから言語も日本語が残りました。そしてシュメールの菊花紋も残りました。
ヘブライは白人なので、怒ると顔が赤くなるので猿田族と言われました。それから宇佐の白兎、山王信仰の猿、稲荷信仰の狐、星辰崇拝の妙見信仰と広まりました。ヘブライは星を読み航海する知力が有ったので、BC660年頃移入したヘブライのリーダーを北極星の天御中主と名付けました。ヘブライの祭祀はヤマト族やクナト族の祭祀と融合し、ヘブライの歴史は切っても切れないものになりました。それは十種大祓の中に、「ひふみよいむなやこと、にの音ふるべゆらゆら祈りてせば、まかる(死す)ともさらに生きなんと」とあり、その意味は、「ゆらゆらと催眠を懸ければ、霊媒を通して死者と話ができる」という意味だと思います。ヘブライはその他にも多くの知力をもたらしました。だからその歴史を切るにも切れなかったのです。
神武天皇からの皇統が始まったのはAD300年頃ですが、BC660年からの歴史は切り捨てられなかったので、天御中主尊を神武天皇とし、AD300年までを別の王の名で繋いだのだと思います。そしてAD300年頃の神武天皇の名を崇神天皇としたのだと思います。神武天皇は、猿田彦(猿田族の王ヘブライ)と日霊子(天照大神)との娘の玉依姫と、海幸彦(海人族の王)と豊玉姫(海人の姫)との息子の鵜茅葺不合尊との、間の子であろうと類推します。それ故にその血を引く系統だから、それで納得したのだと思います。
三女神
遺物から、沖ノ島の祭祀は4~5世紀からと言われていますから、天照大神の三女神は当てはまらないと思います。
ちなみに、神武天皇の祖母とされている天照大神は3世紀初めころの人だと思います。
だから、その子である三女神は3世紀中頃の人だと思います。
では、4~5世紀の三女神は誰かとなると、権力を持っていた人であろうから、応神天皇の母とされている神功皇后が4世紀中頃であろうから、神功皇后の娘であろうと思います。神功皇后には娘が3人居たのだろうと推測します。
神功皇后は、幣立神宮や高千穂が中心で九州が栄えていた頃の九州王朝の復活を望んでいたと推測します。
神武天皇の東征で機内が中心になりましたが、九州には栄える元になった部族がたくさん居て、彼らもそれを望んでいたと思います。
そこで、神功皇后は宗像大社の祭神を長女へ、そして次女と三女用に二か所、社を用意するように、宗像の地元民に要求したかもしれません。
地元民は宗像大社を乗っ取られただけでも嫌なのに、後二か所も乗っ取られるのは嫌なので、思案のあげく、辺津宮と大島と沖ノ島は半島へと繋がる大切な神籬であると説明し、大島と沖ノ島にも宮を用意したのだろうと思います。だから4~5世紀から始まったのだと推測します。
そして神功皇后の九州王朝復活は果たされず、著名な市杵島姫・多岐津姫・多紀理姫の名に変更したのだと思います。
宗像大社の元の祭神は、海人の王だったのかも知れません。
小説 ふびんな三女神
「三女神が宗像を奉斎する前には、前統治者の巫女が奉斎していた」と、八幡比咩神とは何か/菊池展明著に書いてありましたので類推してみました。
前統治者とは三世紀中頃の、ヘブライ系秦の猿田彦と、イザナギ竜王系向津姫との子の市杵島姫(筑紫大神)の流れと類推しました。
その後、ヘブライ秦と新羅系のハーフの五十迹手が市杵島姫の流れの部族に婿入りし、350年頃に神功皇后となる虚空津姫が生まれます。
虚空津姫はイザナギ竜王系の娑渇羅竜王との間に、 応神天皇・八幡姫・頗理采女・善女竜王を産みます。 390年頃、応神天皇として畿内へ入る頃、 神功皇后は市杵島姫の流れが奉斎していた辺津宮の地元民に、 これから神功皇后の三姉妹の八幡姫・頗理采女・善女竜王が奉斎するので、 三姉妹用に宮を三カ所用意するように要求します。
地元民はあまり深入りされたくないので、 思案のあげく、 辺津宮と大島と沖ノ島は大切な神籬であると説明し、大島と沖ノ島にも宮を用意しました。
三姉妹は宇佐から宗像に出るのも嫌でしたのに、さらに沖ノ島まで行きなさいと言われ拒んでいたら、 沖ノ島は新羅と繋がる一番大切な神籬であるから行きなさいと説得され、 三姉妹は交代しながら三宮を奉斎することにしました。
長女は優れた霊媒でしたが、次女と三女は巫女性が低く託宣があまりよろしくないので、長女がすぐに辺津宮に戻れるように長女が辺津宮と大島を移動することにして、 次女と三女が辺津宮と大島と沖ノ島を移動する事にしました。
長女は巫女性が高いので地元民の考えはすべて分っていましたが、 自分たちの傲慢さと地元民の心も十分理解できたので仕方なく黙認し、 次女と三女は地元民の考えを見透かす程の霊媒ではないので、与えられた神籬をやけに成りながらも真面目に奉斎していきました。
後世有名な三女神として祀る時に、 実際は八幡姫・頗理采女・善女竜王の三姉妹なのにその名前は使わずに、辺津宮初代の市杵島姫と有名なその姉妹の田心姫・多岐理姫の名を使いました。
以前大島に行った時、何か後から付けた様な場所だなと勝手に感じましたのと、沖ノ島の祭祀が4・5世紀からというのは新しいなという思いがあり、菊池展明さんの「八幡姫とは何か」の中に 【かつての辺津宮は、新たにやって来た「惣社」に、その祭祀場を譲ったかたちとなったとようです。】 とありましたので、私のイメージが膨らみ物語を作りました。
記紀編纂時不都合であった神功皇后の理想
BC660年ころに、ヘブライが星を読んで航海し、九州に移入しました。そのリーダーのことを、北極星を星辰崇拝する天御中主尊と称えました。その一族を辰とか秦とか言いました。
古代において王のことを彦と言っていました。
ヘブライ秦の系統に豊幡秋津姫、その子の猿田族の猿田彦、環状列石の磐長姫がいます。白人なので怒ると顔が赤くなるので、ヘブライ秦のことを猿田族と言いました。それから宇佐の白兎、山王信仰の猿、稲荷信仰の狐、星辰崇拝の妙見信仰と広まりました。磐長姫を嫁にしていれば瓊瓊杵尊は長く続いたのにと言われたのは、このヘブライ秦の知力によるものと思います。だから瓊瓊杵尊の系統は早くに絶えたことも、ここで言っているのです。
猿田彦はイザナギ・イザナミの娘の日霊子と結婚し玉依姫を生みました。玉依姫は海幸彦の子の鵜茅葺不合尊と結婚し神武天皇を生みました。この頃を第一次九州連合とします。
神武天皇は騎馬民族の山幸彦の孫ではなく、豊玉姫は既に海洋民族の海幸彦の子を身籠っていたので海幸彦の孫になります。そして神武東征の西暦はAD290年ころです。
その後、海人とヘブライ秦とイザナギ・イザナミ系の神武天皇の大和朝廷は、4千年前から続くクナト系尾張の葛城系統へと推移しました。
だから九州は不満となり、ヘブライ秦の遠戚である辰韓であった新羅と共同し、帰順しなくなりました。
ヘブライ秦は純粋なヘブライですが、辰韓は韓人男系のヘブライです。辰韓は遠戚の秦を頼り、近江に入って来て住みましたが、先住のクナト系民に祖国秦の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、和邇や葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許されました。因幡の白兎の話になりました。
辰韓は、卑弥呼が亡くなった時は、素戔嗚に協力して、ヤマト系大国主討伐に加わりました。その後、素戔嗚の名を勝手に使って、畿内や備後、安芸へと侵略をしました。神武一行と安芸津彦や吉備津彦が辰韓の吉備族を討伐しました。桃太郎の鬼退治の話になりました。
それほど危険な辰韓と組んだ九州を危機と思った大和朝廷は九州討伐に動きました。
330年頃、景行天皇が豊後の猿田彦末裔の打猿討伐失敗。
350年頃、倭建命が熊襲討伐失敗。
370年頃、仲哀天皇が熊襲討伐の為、このころ力を持った神功皇后に協力要請するが、神功皇后は新羅を攻めれば戦わずして新羅を得られると言って、仲哀天皇の熊襲討伐を止めさせようとしましたが、仲哀天皇は聞かず殺されました。
神功皇后の母は葛城系であり、父は磐長姫の婚姻の例え同様、息の長いヘブライ秦系です。神功皇后は、葛城よりもヘブライの知力の統治を望み、葛城系統治から、大和朝廷成立時のヘブライ系統治に戻そうと、第二次九州連合を隠起しようと画策していました。
390年頃、神功皇后はイザナギ・イザナミ系の娑竭羅竜王との子の応神天皇を仲哀天皇の子として畿内に進出します。
神宮皇后は新羅訪問後、誉田別命を抱いて東遷するのに、山背根子に命じて、仲哀天皇の皇子の香坂王と忍熊王を殺して、大和朝廷派の天照大神社を広田へ、稚日女社を生田へ、事代主社を長田へ移して、広田と生田の中間の長狭へ住吉三神を置きました。そしてその功績で丹後を難波根子建振熊王に授けました。豊受大神は伊勢へ移りました。
応神天皇の妹の八幡は優れた霊媒で、牛頭天皇の蘇民将来伝説で応神天皇批判が出ないよう大和一帯を抑え込みました。
しかし、21世紀の今は全部返して調和したのだろうと思います。
太秦
神武東征時、神武は秦の太玉命の協力を得て安芸・備後・備中・備前を征討出来、東征を成功に導いた報酬として、太玉命に太秦・徳島・千葉・筑波等を授ける。
そして饒速日はクナト・新羅・秦・竜王系が入っているのを、秦系であったように操作し、ヤマト連合(邪馬台国・大和朝廷前)王が秦系であったように操作した。
そして太玉命の秦系も天孫族系の流れであるような表現をしたのだと思います。
神武天皇
豊玉姫は山幸彦(内陸民族)の妻となりましたが、すでに海幸彦(海洋民族)の子を身ごもっており、予定より早く生まれたので、産屋が間に合わなかった。
だから鵜茅葺不合尊は山幸彦の子ではなく、神武天皇は山幸彦(瓊瓊杵尊)の系統ではない。
しかし、山幸彦(瓊瓊杵尊)の孫と認められているから、瓊瓊杵尊勢力の東征とされる。
神武天皇が東征する事になった時系列
出雲から尾張に多い銅鐸文化のクナトの地に、ヤマト族が卑弥呼と云う優れた霊媒を連れて入ってきました。
卑弥呼は他人の考えや過去未来を言い当てる、超優れた霊媒であり、自然災害を神の成すわざと認識していた当時の人は卑弥呼を神だと思いました。
卑弥呼は鏡に魂が宿るとして、銅鐸祭祀から鏡の祭祀に替わりました。
ある者は銅鐸を隠すように埋め、ある者は銅鐸を割って、魂を抜いて自由にしたか、鏡へ魂を入れたかもしれません。
ヤマト族の卑弥呼が亡くなったことで、卑弥呼と同族の出雲の大国主の権威が無くなりました。
吉備には辰韓族が移住しており、畿内のクナト族の素戔嗚は辰韓族の姫を嫁にしていましたから、卑弥呼の死によって素戔嗚は目障りなヤマト族を叩くために吉備から出雲へ侵攻しました。
吉備は力を付け、東は畿内へ、西は安芸の廿日市まで侵攻して来ました。
神武の妻の吾平津姫の母は畿内の三嶋の娘であり、畿内が吉備から侵攻された事を知った神武は東征しました。
神武は広島、岡山、兵庫と辰韓族を討ち、畿内へ入ろうとしましたが、辰韓族のプロパガンダに乗せられた畿内と対峙する事になり、神武は吾平津姫の母の親戚でもある山祇が住む南紀へ逃れ、山祇の協力を得て、プロパガンダの解けた畿内へ入りました。
神武天皇の冤罪・名草戸畔
神武天皇が初代天皇であると云う事は、初めて大きな国が成立したと云う事であり、その地域は少なくても神武天皇が東征した鹿児島から奈良まではあるだろうと考えられる。
2~3世紀の邪馬台国以前は100余国あり倭国大乱状態であるから、鹿児島から奈良までを一国とする天皇は存在せず各国の王になり、100余国大乱状態下の統一天皇の記述も無い。
それ故に初めて天皇が誕生したのは鹿児島から奈良まで神武東征によって統一国家が出来た時であり。それは邪馬台国以降であり、248年卑弥呼女王亡き後、男王が居て、台与女王の後になる。それは大和朝廷になる。
卑弥呼が亡くなり邪馬台国の力が無くなった後の状態から、連合国を崇神天皇へ明け渡した開化天皇が饒速日命であり、初国知らしし御真木天皇と云われる崇神天皇が神武天皇にあたる。
神武天皇は大和朝廷でありAD290年頃に成る。
綏靖・安寧・懿徳天皇は尾張時代の王であり、孝の字が付く孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇は邪馬台国時代の王であると考える。
孝昭・孝安・孝霊天皇が出雲大国主であり、卑弥呼女王と同時代であり、卑弥呼亡き後に出雲に侵攻したのが孝元天皇と名付けられた素戔嗚である。その後に台与・開化天皇と考る。
AD270年頃、畿内はクナト系の饒速日命が王であり、物部大綜麻杵系の彦太忍信は王に成れなかったことから、時代的に想像し得る行動は、彦は王を意味し、紀国の名草戸畔を殺害し紀国の王になったと考えられる。
AD290年頃、神武天皇は畿内に入るが敵と見なされ撤退し、紀国の名草戸畔を遣ったことに成っているが、戦力が落ちて紀南へ撤退する途中に紀国を攻める動機が無い。
ましてや水先案内をした珍彦は彦太忍信に侵略された紀国の祖であり、珍彦は神武に彦太忍信を遣って、元紀氏の地を取り返してくれと頼みはしても、紀氏の名草戸畔を殺害するなど真反対の動機に成る。名草戸畔を殺したのは20年前の彦太忍信だと類推します。
何故紀南へ撤退したのか、紀南は山祇の地であり、神武の妃の吾平津姫の母は三島であり、三島は山祇であるから、同じ山祇の縁を頼って紀南へ撤退したのです。
何故神武天皇が名草戸畔殺害の冤罪を着せられたかと云うと、390年頃応神天皇が九州王朝から畿内へ進出をはかるにあたって、彦太忍信の子孫である武内宿祢と協力して紀国・畿内を手中に入れたので、270年頃の彦太忍信の名草戸畔殺害を290年頃の神武の所業に言い換えて過去の罪を消したのです。
吾平津姫と神武天皇の子、多芸志美美
多芸志美美はとても知性が優れていて勇敢だったので、異母弟にとって多芸志美美に正々堂々と生きていられれば、自分達の非脳さが露呈してしまうので、異母弟達は多芸志美美を抹殺したのでしょう。
良くある、人を陥れる性質です。
信頼している親族に突然遣られ、更に悪者にされたままの多芸志美美は呪うなどの下賤な事はせず、霊界から、彼らが消えて行くのを見ているでしょう。
海人と綿津見と隼人と安曇
神武は懇親な海人(竜王系)を隼人といい、九州北部の海人を渡津見とか、入り江に居るから阿津見、安曇(阿=曲がって入くんだ所)(渥美半島)と言ったのだろう。
元は海人で習慣は同じだったが霊媒により習慣が変わって来る。
ヤマト族
東南アジア・沖縄から入って来た海人族で卑弥呼はこの一族、竪穴式住居と高床式住居を使い、丘陵上に住む、箱式石棺墓を使用する、霊媒気質。 竜王族(イザナギ系や住吉系や呉越の海人)は遠戚
邪馬台国 (ヤマト近畿連合=ヤマト国→邪馬臺国→やまたい国)
邪馬壹国(ヤマイツコク)と書いてあるけど、言葉は「やまたいこく」であろう。大和、台与、など、”と”に臺(たい)の字を使っており、「やまと国」が正解で臺の字だから「やまたい国」と読まれたもので、臺(タイ)が壹(イツ)に替わったのだろう。
57年頃は魏に対しては奴国が主要国であり、以降ヤマト族が台頭してきて、180年頃ヤマト連合が魏に対して主要国となり、卑弥呼はその頃生まれる。
そして卑弥呼の優れた霊媒性が要となり、220年頃ヤマト連合に負けない近畿連合を含む広大なヤマト近畿連合邪馬台国となり中心は近畿に移る。
卑弥呼以前の近畿を含まないヤマト連合国の名は魏に対してまだ出来ていなかったから倭国と言われていたのだと思う。
近畿を含み大国になったので邪馬台国(ヤマト大国)と言われ、崇神天皇(神武)以降は大和朝廷。
九州王朝(九州連合)
筑紫君磐井は筑後国熊襲国(親新羅)になるが、朝廷に献上したのが筑前国糟屋郡では熊襲国が糟屋郡まであったことになる。
熊襲国は地形的に大宰府の南の筑紫野市から大牟田辺りと思われ、ヤマト連合国(親百済)は大宰府以北と思われる。
なのに粕屋郡を献上したというのは、応神天皇以降、神功皇后と熊襲国と新羅同盟が筑紫国同盟を推進(侵攻)し、糟屋郡まで広げていたので、 継体天皇の時、糟屋郡を返すという事象ができたとしか考えられない。
だとすれば、継体朝廷の反対勢力は神功皇后新羅同盟の子孫と熊襲と筑紫となる。(応神天皇は391年にヤマト連合と親しい百済を攻め始める)。
高良大社が高良玉垂命という神功皇后に関係する祭神と作為され、三井あたりの水神は何由来か分からなくなっており、高良大社の4世紀以前の歴史が完全に消されているのが、370年頃、力を持った神功皇后による九州王朝成立の証しと見える。
その時には熊本の球磨族、鹿児島の曽於族は神功皇后勢力に征服され、《神功皇后勢力》では大和朝廷に対して都合が悪いので隠れた勢力であったが、中央からは《熊襲族》と言われた。
新羅が神功皇后に降伏したのではなく、元々神功皇后は新羅と熊襲と親密だったから、隠すために新羅征伐により降伏したという話が必要になった。
卑弥呼(彦巫女・王巫女・女王)
記述がないので、記紀編纂の8世紀の朝廷側とは直系ではない人物であるから、物部系と思える
ヤマト族の父(黄人)と秦系の母(白人混じり)のハーフではないか、福岡~出雲はヤマト族、宇佐~広島・松山辺りは秦系、そしてどちらにもハーフが居る。
九州から近畿の国々が大巫女と認める偉大な霊媒
卑弥呼は誰とも会わないので、魏に「卑弥呼は鬼道を使い、衆を惑わす」と、さげすむ報告をしたであろう一族(奴国)とは敵対関係。
なぜこれだけ有名な人が歴史から消えたままになるのでしょうか
全ての文献が客観的正確ではなく、事実とする証拠にはならず、根拠にならないから、説が幾つもある。
古文献にどれだけ真実が正当に書かれているでしょうか。
とんでも歴史だ、無知な者の自己主張だ、という言葉を使って、先駆者の大家から外れる事を許さない古代史研究の大家の人達が言っている古代史は、勢力側が創った文献で、事実を書くわけがなく、古代から尾ひれが付き続けており、これこそとんでも歴史だから古代史研究に興味を持つものが多いのに、いつの間にか大家の押さえつけに洗脳されてしまい、当時の人が保身のために捏造した、普通に考えれば有り得もしない内容の文献を前提に固執している為に、登場人物の人物像に明らかな関連が見えて来ない。
西暦と人物達と有り得る関連が見えない事こそ、とんでも歴史から抜け出せていないと思います。
それでは、お爺さんとお婆さんでよいのです。何の為に研究をしているのでしょうか。
記紀は史実では無いのは当然なのに、記紀に固執するのは、歴史から学びたいのではなく、歴史家という地位を得たいが為に、それこそ本質を知りたいと思わない無智な者の自己主張だとしか思えません。
だから賢い人は古代史研究に入ってこない。
表面だけ研究して、古代の人の生きた経験を無駄にし、研究したあげくに、「誰も本質は分らないから陥れた者勝ちだよ」と子孫に教えている。
「悪いことをして隠してもみんなばれているよ」と教えることが出来ない。
歴史を研究するのであれば、先祖を知り、脳がどのような判断をして、脳の欲求がどの様なものか、だからどの様に歴史を繰り返して来たか、研究しないと意味がないじゃないですか。
植物や動物が生態を変えないように、脳は進化していないと思えます。
勢力側の過去を見て「へ~」って言っているだけなら、それこそ無智と言われてもしょうがない。
証拠がなければ歴史学にならないと言っても、勝者がする戦争裁判と同じものを証拠だとしているのだから、それは証拠にはならないから、歴史家が言う歴史学に成っていないと思います。
むしろ、その証拠としているものは、都合の悪いものがあるという証拠になります。
脳の本質を見れば、こんな時、弥生時代の奈良人は、名古屋人は、茨城人は、どの様に認識してどう行動するか推測して整合性を検討すれば史実の大筋に近づけると思います。
自分は戦争をする様な人間ではないと思っていても、歴史が繰り返されたのを見れば、戦争だけではなく、人間がしたことは全て、人間の脳では、状況によっては、誰でもが”そうなってしまった”のです。
その事実を知っていても、自分もそうだと気づかないのは、表面だけ調べて、本質を見ないからです。
大国主と素戔嗚
縄文時代は環太平洋には国境が無かったから、人は自由に足軽く移動していたと思います。
ポリネシアから日本へ、日本からポリネシアへ、ポリネシアから南米へ、台湾から北海道へ、遊ぶ楽しみの無い好奇心の強い縄文人は、遠距離を移動することが遊行のように足軽く移動していたと思います。
しかし、弥生後期は多くの国に分かれて大乱状態であるから、自国を出る事は難しいと思います。
そんな中、出雲地区の大国主が近畿や九州に自分の縄張りであるように移動できるわけがありません。
素戔嗚が高千穂や出雲や紀伊で主導的に行動できるわけがありません。
多くの国に分かれて争っていたから、卑弥呼を共立して邪馬台国を成したのだから、それまでは王のような者が自由に移動できるわけが無く、自分が守る地区の外に出るはずがありません。
各地の大国主や素戔嗚、豊玉姫等の名は、前権力者の名を消すために当てはめたのであって、その前権力者が大国主や素戔嗚等の同族であろうが、敵対部族であろうが構わず都合の良い名を当てはめるのです。
出雲の大国主は卑弥呼が亡くなったので、素戔嗚に攻められ、その後素戔嗚が出雲の王になったのだと思います。
徹底的に各地の前王の名を消しているので、もう分かりません。
ただ記紀編纂の8世紀の政権の物語に都合の悪い事が消されて、そこに消された事があるという証拠に成るだけです。
同族か、敵対かは関係なく、物語に都合が悪い事象を消すために当てはめ誤魔化したのです。
年代も名前も関連付けも伝言が、その時々で都合の良いように創られます。
そのような嘘が人間の癖です。
出雲の国譲り
出雲にはクナト系とヤマト系の民が共存していたと思います。
ヤマト系の卑弥呼を共立して、出雲以西のヤマト連合と、近畿連合が、ヤマト大国(邪馬台国)に成りました。
この連合を成すために大きく働きかけたのが、当時の出雲国のヤマト系の王でした。
畿内は尾張クナトから派生した部族が住み分けた土地で尾張の王の下位の土地だと思います。
220年頃、畿内はクナトや渡来人、秦などのいくつかの部族間衝突が絶えませんでした。
尾張の科戸~科野はそのようないさかいは少なく、まとまっていました。
欠史8代の綏靖―安寧―懿徳はその尾張クナト系の王を表していると思います。
その尾張クナトの世襲足姫と婚姻することによって出雲のヤマト系の王が、卑弥呼を共立して大連合を建てようと畿内に働きかけ、尾張クナトの後押しもあり大連合が成立しました。
卑弥呼が女王になると、その立役者の出雲の王は、邪馬台国で大きな影響力を持つことができ、大国主と言われました。
大国主は卑弥呼の縁者であることを後ろ盾に、中央へごり押しをしたかも知れません。
その為中央に嫌われていたかも知れません。
出雲大社で西向きに祀られているのは、「貴方は中央に口出しせず、出雲以西を見ていなさい」という意味かも知れません。
248年頃、卑弥呼が亡くなると、丹波辺りに居ましたクナト系のスサノオが、吉備から侵攻し、出雲のクナト系の民と合流し、中央に口出しをするヤマト系の大国主を攻めました。その時、大国主が殺されたか自害したかは分かりませんが、スサノオが出雲を征服し、口出しをするうるさい大国主が居なくなりましたので、近畿を含む邪馬台国の男王に成りました。
出雲はヤマト系の王からクナト系の王に国譲りをしたと言い換えました。
スサノオは畿内へ戻り、大市姫と結婚します。
大市姫の市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味で、大市姫は偉大な霊媒でしたから、台与と言われる女王になりました。
それ以降、出雲の地は主要国ではなくなり、影響力を持たないように見張られました。
邪馬台国(ヤマト大国)を成し得た立役者の大国主とヤマト民の口惜しさは、大和朝廷にとって、祟りという懸念になりました。
スサノオは、250年頃の人で父は磯城県主大目(畿内クナト)。母は辛国息長大目(新羅系)、赤留姫とも言われました。
磯城県主(アコタヌシ)大目は畿内主要勢力の磯城氏・志那都彦・級長戸辺の系統で邪馬台国に成る前は、瀬戸内や隠岐・大隅などと交易をしていたクナトの大部族です。
樹木繁茂せる山領を司配する志芸(シギ)山津見神は磯城(シキ)氏と思います。
磯城県主大目の時代は、同時代に瓊瓊杵尊・猿田彦が居て神話の系統とは重複してしまいます。
赤留姫の新羅系は親百済の大和朝廷にとってよろしくありませんでした。
さらにスサノオと大市姫の間に饒速日が生まれていていました。
饒速日は市杵島姫と結婚し、市杵島姫の優れた霊媒性から畿内の主要勢力に成ります。
スサノオ~饒速日の系統の働きは完全には隠しきれるものではありませんでした。
しかし、それを認めると瓊瓊杵尊系統が薄れてしまう為、隠したかったのです。
神話にスサノオの悪行の話があるが、大陸民の得意とする自分の蛮行を他にすり替えた話です。九州や吉備で新羅勢力が起こした話です。
出雲大国主と尾張クナトの世襲足姫との婚姻からの天皇の名は考の字を使い、孝昭天皇が大国主、考霊天皇が磯城県主大目、孝元天皇がスサノオ、にあたると思います。
台与(大市姫)は世襲足姫と同じ様に尾張クナトから嫁に出たと思います。
科戸~科野の伊勢~尾張~信濃はクナト勢力の主要土地に成っており、渡来人が住んでいない田舎地でありましたが、畿内からは一目置かれていました。
だから三種の神器がある伊勢神宮や熱田神宮があるのです。
大祓詞に【科戸の風の~如く】【焼鎌の敏鎌以ちて打掃ふ事の如く】とあるのは、【級長戸辺も厚い雲を吹き放つ様に、霧を晴らすように、大船が大海に出る様に、従わない者を十握剣で討払い、統一したのであって、統一の為、誰でもすることで仕方なく、罪では無いよ】と、大和朝廷側が以前のクナトが統一した時の様子を書いて仕方ないことよと言っているのだと思います。
伊勢神宮にも数本の剣があるらしいのですが、十握剣は十本の剣という意味だと思います。
剣を数える時、本ではなく、握りを言ったと思います。
大和朝廷の中央の畿内も、科戸は崇敬せざる負えない所だったと思います。
倭姫が伊勢に決めたのは最初から伊勢に移せば中央の権威が下がるので、「迷ったあげく」と、したのだと思います。
何故なら、優秀な霊媒が迷うのは変なことですし、天照大神が迷うのもあり得ない事です。
出雲国譲り後の宮島の対岸の歴史
平安時代には、廿日市市宮島の厳島神社、府中町の多家神社両社は国司が幣を奉る名神大社であるのに対し、廿日市の速谷神社は中央政府の神祇管が幣を奉る名神大社であり、安芸国最高の地位にありました。
弥生初期には、極楽寺山麓の廿日市や五日市はなだらかな扇状地を段々にして平地を作り、水稲や畑を作っていました。
弥生中期になりますと、ヤマト族や秦系が共存していました。
250年頃、卑弥呼が亡くなり出雲でヤマト系の王とヤマト系の出雲族が、スサノオとクナト系の出雲族に征服されました。
ヤマト系の王がクナト系の王に国譲りをしたと言い換えられました。
スサノオが出雲を支配するようになると、備後の吉備勢力が東広島市西条辺りまで西へ進出していき、やがて広島市辺りまで進出してきました。
280年頃には吉備勢力は東は畿内へ進出し、西は廿日市辺りまで進出してきて、東は饒速日が遣られ、西の廿日市や五日市の秦系やヤマト族は征服されました。市杵島姫は逃げる途中廿日市辺りで遣られました。
生き残った秦系やヤマト族は高地へ追いやられました。
290年頃、神武は叔母の市杵島姫の仇討と、畿内や西へ進出した吉備討伐の為東征し、廿日市の吉備勢力を討つため、吉備側に付いていた安芸津彦に協力要請し、安芸津彦と共に吉備勢力を討ちました。
その後、岡山の吉備を吉備津彦の協力得て討伐、蛮行新羅の鬼退治をしたのです。
神武天皇と崇神天皇と饒速日尊
神武天皇の后は倭大物主櫛甕魂命と勢夜陀多良比売の子の伊須気余理比売で、大和側との政略結婚だから父の大物主は倭の地主神でないと不合理と思います。
当時の倭の王は櫛玉饒速日命だから伊須気余理比売は櫛玉饒速日尊の娘が合理的と思います。
更に伊須気余理比売は大久米の刺青を見て驚いたので、刺青の風習のない機内の伊須気余理比売は九州ではなく大和の民だから政略結婚なので、父の饒速日尊も大和の神でないと民が納得しないと思います。
更に神武天皇は大物主の娘を后として初代天皇になったのだから、后の媛蹈鞴五十鈴媛尊は伊須気余理比売が后になった名と思います。
神武天皇の時の勢夜陀多良比売も崇神天皇の時の倭迹迹日百襲姫も陰を突かれた姫で、神武天皇は大物主に引け目があり、崇神天皇は大物主の祟りを受け、同一人物だと思います。
饒速日尊の東遷と表したかった訳は、勢夜陀多良比売は三嶋湟咋の娘であり、吾平津姫の母は三島の娘だから親戚をもって東遷としたかったのではと思います。
市杵島姫は神武の叔母と思います。
市杵島姫は饒速日(開化天皇)の后に、田心姫(玉依姫)は鵜茅葺不合尊の后に、多紀理姫(菊理姫)は丹波大己貴の后へ行ったと思います。
客人神社に祀られる市杵島姫は白人とのハーフで優れた霊媒だと思います。
市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味。(意識を交換する→今は物を交換する)
島=揣摩(しま)=未知が見えるという意味で市杵島姫の優れた霊媒性と容姿から饒速日が娶る事で畿内の主要勢力に成ったと思います。
菊理姫
邪馬台国の時代、
菊理姫とは多紀理姫が丹波大己貴と結婚したことにより菊理姫と言われるようになった。
菊はヘブライの紋章であり、猿田彦はヘブライであり、多紀理姫は猿田彦の娘と思う。
平安後期の天皇に教授する学者の歌で、
「かばかりの匂ひはあらじ菊の花むべこそ草のあるじ成りけれ」
要約すると、「草の主は菊の花」という事ですが、民の主は菊の紋章と云う意味が隠れていると思う。
ヘブライは秦系であり、秦系の猿田彦と日霊女(天照大神)の子が三女神であり、
市杵島姫は饒速日(開化天皇)の后に、田心姫(玉依姫)は鵜茅葺不合尊の后に、多紀理姫(菊理姫)は丹波大己貴の后へ行った。
大和朝廷の時代、
崇神天皇(神武天皇)は服従しない丹波大己貴を陸耳御笠として、その妻菊理姫を匹女として大江山の鬼として討伐する。
邪馬台国時代の民で後に山奥に隠れ住んで山窩と言われた人々にも信奉される菊理姫は科野を頼り、次に科戸の尾張へ逃げたのではないか(味美白山神社古墳)
邪馬台国時代の名が多紀理姫
后になった名が菊理姫
大和朝廷時代の名が匹女
箸墓古墳の被葬者は誰か?
箸墓古墳の被葬者は誰か?という要点は、3世紀末の重要人物は誰かと云うことになる筈です。
記紀編集の時期、藤原氏が台頭して来た時に、707年7月と708年1月に、山奥に隠れて禁書を隠し持ち、百日経っても自首しなかった者は刑罰を与えると発令し、713年には各国に風土記を編集させ提出させています。その時に歴史が改ざんされていただろうことは類推でき、隠しきれないものは何かしら誤魔化したであろうと思います。
3世紀始め、銅鐸は各地で故意に割られ、三種の神器に昇格した鏡へと代わった事から神の系統が代わった事を類推できます。
その絶大な力を持っていた卑弥呼や邪馬台国は歴史から消され、出雲王国は歪曲されました。
4世紀初頭頃は大和王権が確立し、邪馬台国が滅びてから後、雄略天皇に滅ぼされるまで葛城の時代は続きました。
3世紀末は、絶大な影響力を持つ卑弥呼や出雲王国が無くなり、以前の畿内の葛城氏が勢力を持ち直してきた時期です。その3世紀末の箸墓古墳(大市墓)の被葬者が倭迹迹日百襲姫命であるとされ、物語的な理由を取って付けて8世紀の政権によって名前がいじられているように思います。
大市墓の市とは、「神の言葉を降ろす神の子」という意味で、市=意識を交換すると云う意味だと思います。現在では市場は物を交換する意味で使います。だから大市は卑弥呼同様偉大な霊媒であっただろうと思います。神の言葉でまつりごとをしている時代で、そのような偉大な人物が8世紀の藤原系ではないことは不都合であっただろうと思います。
ではその偉大な霊媒は台与ではないかと類推できます。しかし、卑弥呼の墓が無いのに、卑弥呼の宗女である葛城系ではない台与の墓だけを葛城政権が作るのかと疑問を感じます。もし台与が葛城の霊媒であるならば、偉大な霊媒である台与の墓を葛城政権が作るのは最もなことです。
もし台与が葛城系でない場合は、葛城政権時代の箸墓古墳に埋葬されている葛城系の偉大な霊媒の名は、長脛彦の妹の三炊屋媛だろうと推理します。別名は鳥見屋媛、櫛玉姫、長髄媛、とあります。長脛彦は妹の偉大な霊媒の力をもって王になれたと類推します。(神武東征は300年頃として)。倭迹迹日百襲姫は大物主が櫛笥の中に小蛇の姿で現れたのを見たとしてある。櫛笥は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の妻であることを示しているだろうと思われる別名の櫛玉姫と関連しているかとも想像してみます。こう考えると長脛彦は2600年前の中西遺跡から続く、もしくは12000年前の竹内遺跡から続く、葛城の正当な王の系統だったとも考えられます。
台与が三炊屋媛かもしれませんし、三炊屋媛は卑弥呼や台与に地位を取られましたが、葛城の内密では偉大な霊媒を果たしていたと思います。
ちなみに、カツラキとは絹織物の言葉で目の粗い薄い綾絹(精妙な、神々しい)という意味で、ヤマとは御陵(皇族の墓所)という意味があり、カツラキヤマは神々しい御陵という意味もあります。
外宮の男千木の謎
外宮の豊受大神は豊受毘売神・御饌都神・大宜都比売神と呼ばれるように女神ですが、外宮の神は男千木由来の男神であるとするならば、豊受大神は神を祀る巫女であろうと考えてみると、卑弥呼を共立して統一国家を成す為に、土着の部族の神も卑弥呼の神も共に奉る由で統一を成し、土着の神を祀った神ではないかと思います。
それは火の神ではないかと思います。火は生きる為に必要で、古代人にとって最上位の神であっただろうと思います。水の神は水波能売命・罔象女神・水速女命と呼ばれるように女神であり、火の神は火之迦具土神・火之炫毘古神と呼ばれ男神です。
御饌都神・大宜都比売神の都の“つ”という発音は“治める“という意味があり、他には山津見神・吉備津彦命・瀬降津姫神・吾平津姫・辺津宮など、治める意味があります。 (御饌は神饌です)
食を治める巫女が奉斎する最上位の神は、倉稲魂神ではなく、火の神であろうと思います。 (姫は巫女を意味し、彦は王を意味する)
ちなみに、熊野本宮大社の家津御子大神は素戔嗚尊とされていますが、家を治める巫女大神だから、火の神を奉斎する大巫女だと思います。その名は大戸比売(澳津比売・かまど神)だと思います。 “戸”は、神界と人間界の境を意味し、火の神は最上位だから大戸と表現したと思います。 (科戸(風の神)、釜戸(竈門)、戸隠(神を隠した)、岩戸、神戸、瀬戸、鳴門など)
ちなみに、7世紀になると、火の神は当たり前になり、水の神が称えられるようになったと思います。
飛鳥水落遺跡の水時計などありますが、酒船石の謎は、沙化船という意味だろうと思います。
沙=良いものと悪いものをえり分ける、 化=かえる、 船=器、
砂などのゴミを濾して、木管等の水路を切り替えるバルブ装置と思います。
だから水量の多い水路は沙化船(器)が大きい。
熊野本宮大社の家津御子大神を素戔嗚尊であるとした人は、原初の火の神への畏敬が薄れたミーハーだと思います。
戸隠とアラハバキ
科野はヘブライ系秦とクナトが住み分けしていたと思います。
ヘブライ系秦はモレヤとミシャグチから、
クナトは 戸隠の社紋が鎌から、クナトの紋だと思います。
草薙剣は刃の部分が草を刈り込むように内反りの方に付いている剣、十握剣は十本の剣だと思います。
蛇神信仰から、出雲の蛇、三輪山の蛇、伊吹山の蛇、戸隠の蛇はクナト系の神だと思います。
墓域習慣から、4000年前青森野場遺跡では竪穴住居廃絶後、配石遺構の下の竪穴に、埋甕が出土。
4000年前長野安曇野市北村遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、そこが墓域となる。
4000年前奈良宮の平遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、配石下の土坑から埋甕が出土。
など、配石遺構の下が墓域になったであろう習慣が同じであるから同民族であると思います。
武御名方は出雲から逃げて来たのではなく、元々科野にいたクナトで、秦系の娘を貰う事で、クナトと秦が共存するように成ったのだと思います。
科戸~科野~越~丹波~出雲はクナトの主要道路だと思います。
戸隠はクナトの霊媒であるアラハバキの流れの大巫女を大岩で封じた事を、高千穂から大岩を下界へ投げ落としたと、話を変えたのだと思います。
それは崇神の時だと思います。手力男は神武の大和入りに協力した武甕槌󠄀かも知れません。
クナトの武御名方と同族で、当時春日に住んでいて、東遷後の戸隠の大巫女を大岩で封じたかも知れません。
角力の元祖と言われる。
その頃から安曇が入って来たと思います。
応神の時代に成りますと、崇神勢力から応神勢力に替えないといけませんから、各地の伝承を応神の正統性を表すように変えないといけません。
科野は崇神の時は五百建命を置いて統治しましたし、古代から続くクナト、秦、崇神の色が強いので、応神勢力が正統である様に尾張系図として新しく編さんし、応神天皇に繋げたのだと思います。
海部系図も応神勢力に替わった時編さんされ、丹波もクナトと秦の色が強いので、海部から応神へ繋ぎましたが、天照もイザナギもイザナミもスサノオも居ない系図では引け目を感じるので、科戸も科野も丹後もクナト系の同族が居たと思いますが、尾張(クナト)と海部(海人)は火明命を祖とする同族として正史であると思わせるようにしたと思います。
火明命は誰の諱か分りませんが、せめて天照大神に代わる者が欲しかったので、天照す太陽の欠片の火の神が明るく照らす命としたのだと思います。
天照大神
太陽の神霊が宿る人
卑弥呼の死後日蝕になったので、その時生まれたか、又は神懸ったから、優れた霊媒である向津姫が日霊女神と認定される。
太陽神霊が宿る人は一人だけではなく、複数いる場合は、和魂、幸魂、奇魂、荒魂と言い別けたり、分け御魂を引き継ぐ者とか同神と表現される。
そのような表現の裏には、同等に優れた者、世代交代、前者の封印、人は替わっても神は替わっていない、という意味がある。
月読神
”月待の祓”に月弓尊・月読尊とあり、三日月も連想でき、トルコ系民族を類推できる。トルコ系民族は騎馬民族であり、星を読んで移動するだろうし、倭に来て農耕民を蹴散らしたかもしれない。天照大神と喧嘩をした話から、日で穀物を育てる民と喧嘩をしたと類推できる。
それが秦一族(東南アジア海経由と内陸経由とも類推できる。
表面には隠れたままアイヌ(クナト)の意志が残っている
アイヌは、神の国カムイモシリと人間の国アイヌモシリと死者の国ポクナシリがあります。
神の国と人間の国を結ぶのは火の神で、火の神を通じて様々な神と繋がります。
火や水など暮らしに関わる依存度の高いものほど位が高い神になります。
人の為にならない地震や伝染病は悪い神になります。
家の東の神窓の外には、幣柵があり、様々な御幣が置かれ、火の神に語られた言霊は神窓を通して幣柵に送られ、御幣に乗った言霊は幣柵から鳥の如く神の国に飛び立ち、それぞれの神に伝えます。
神の国では、森の神や海の神などが、あの世とこの世のことを語り合ったり、誰をこの世に送ろうか話し合ったりしています。
様々な神は、この世で動植物の衣をまとって仮の姿で現れています。
この世の万物には神が宿っています。
この世に降りる場合は、依代である高い山とか森とか木とか神聖な場所に降りて来て、そこから肉体の衣をまとって川沿いに進み、村に訪れます。
神の国に帰る時も幣柵から川沿いに進み、依代から帰って行きます。
あの世の入口はカムイトーと言います。
亡くなった普通の人間の魂は、頭を東にして埋葬し、起き上がって西へ、火の神様が選んだ配下の神々が先導してあの世に行きます。
西はあの世では東になり、後から後から子孫が来るので、年数が経った先祖はあの世の西へ移り、この世の東へ生まれるのです。
鹿などの小動物は個々の魂ではなく、その種の魂ととらえます。
熊は個々の魂ととらえます。
熊は偉い神さんなので、御魂送りをする時、共物を沢山供えます。
熊の魂は神の国に帰った時、共物を分け合い、共物が多いほど神位が上がり、再びこの世に来ると考えます。
人を食べた熊は悪い神なので、ばらしてその場に捨てます。
そのような悪い神や、または悪い人間は、再生する事のない、腐ったような場所テイネポクナシリへいきます。
このアイヌの風習は「火の神の懐にて」の著者の松居友さんとアイヌのイトばあさんの話から引用したものですが、他にも沢山、神の国カムイモシリや死者の国ポクナシリのことが詳しく書かれています。
私はこのアイヌ(クナト)の生き方が神道や古代史に残っていると感じます。
クナトの言葉や風習がアイヌに残っていると思います。
始めに生命の生まれる東・太陽があり、その意識が表れる山があり、死に行く西が在り、その表れが海であり、山と海を繋ぐ川があり、その途中に村があります。
アイヌの聖地、賀張山ポンニトイエ岳の山頂に、神の国から人間の国に、ニシカンル姫(雲)が降りて来ました。
山一帯の神は男、水は女の神です。
生命の生まれる東の山から、死に行く西の海を繋ぐ川の話は、瀬織津姫の話元、ニシカンル姫ではないでしょうか。
チキサニ姫(ハルニレの木)はカンナカムイ(雷神)がひと目ぼれして雲の間から落ちて、身籠り生まれたのがアイヌの先祖です。
森は大地と樹木を司る神々が乱舞するところで、熊を神の使者として神聖視しているアイヌ(クナト)は、紀南を熊野と呼んだのではないでしょうか。
樹木繁茂せる三領を司配する志芸山津見神(シギヤマツミ)は磯城氏(シキ)でアイヌ(クナト)ではないでしょうか。
かまどの神大戸比売は、天火明命は、火の神を中心に考えるアイヌ(クナト)ではないでしょうか。
歴史を創るのは強者ですが、歴史は民族の知性・精神が創ったものですから、作為を入れず正しく歴史を伝える事が、自分では気づかない民族性が出来た流れが見えて、自分が見えてくると思います。
先人の経験を正しく伝えようとしない民族はいずれ崩壊すると思います。
歴史を封じれば、嘘の誇りの為に志を見失い、覚えられない法律を作り続けないと社会が維持できず、いずれ崩壊すると思います
弱肉強食を捨てようとしている人間は、力による支配は受けない約束のはずなのに、勝てば支配が許されるから、戦争が無くならない。戦争に勝ったら立場が上になる。
それなら法律は要らないのにおかしなことです。
作為の無い歴史を長く伝え続けていくほど、穏やかになる事を学ぶことができ、身に付いてくるのだと思います。
「人生は一度きり」ではなく、数万年前からのリレーの途中なのです。
人間は当たり前にしてはいけない事を繰り返しするのです。
ものごとは傲慢な者の方へ事が進まないと解決しないのです。
だから本当の事を言う者が潰され、正しかった言葉が消されていくのです。
人間は共通の価値観の中で生きることが幸せと感じるのですが、全くそのような状態になる事はあり得ません。
常識は平均的な価値観で成立している様に見えますが、誰にでもあてはまる事ではありません。
あてはまる人ほど幸せで、外れる人程ストレスを感じるのです。
大きく外れたイエスや釈迦やマホメットは共通の価値観の中で暮らせるという幸せを得ることが出来ない中、出て来た一部の人達だと思います。
人間は知恵があるから、価値観が雑多に分かれています。
せめて価値観が全く違うという事を認識して、共存できる敬える心を常識として学ばなければいけないと思います。
人間は自分だけ優位に居続けることは不可能なのです。
人間だけが、絶望し、そこから気力を見い出し、再び悩み迷い、同じことを繰り返し続ける。
宇宙から見れば地球が無くなっても何でもないのに、 未来から見れば今は過ぎ去った過去なのに、物も権威も壊れるのに、 どうせ人間はふびんなのだから、過去に何が有っても、隠し事の無い魂だけが、怯えることがなく、この上なく幸せなのに、なんで、はかりごとを巡らすのでしょうか。
はかりごとを巡らしてもほんの数十年なのに、そのために何百年という死者の国ポクナシリを腐ったような波長のテイネポクナシリや、人をけなしたり威圧したり、欲やこだわりの波長のポクナシリで過ごし、成長しないままこの世に生まれ出るなんて、勿体無い事です。
せめて元のすがすがしいすなおな波長の死者の国ポクナシリに帰り、世界中の多くの仲間と再会を喜び合いたいものです。
「人は一人では生きていけない」ではなくて、「人は一人ではないのです」
クナトと伊勢
クナトとはあの世との意思疎通に長けていて、日常の神への礼拝や救いを求めたり、霊の御魂送りや、霊障に対処する知識を普通に持ち、まつりごとをしていた民族の事をいったと思います。
アイヌ(クナト)でカムイトーは神の国と繋がっている処、クは句点の切れ目、ナは納める、で、あの世と繋がっている境に精通している民族という意味だと思います。
シナ戸は風の神の表れる処、カマ戸は火の神の表れる処、戸隠しは神の表れる処を隠した、などです。
クナトの大神はクナトの王の事を言い、アラハバキはクナトの巫女の事を言い、大戸比売はクナトの火の神の巫女のことを言っていると思います。
アイヌ(クナト)は火の神を中心に様々な神々と通じます。
伊勢に天照大神が祀られているのは、九州系統ではなく、尾張クナト系統だからだと思います。
その神は台与だと思います。
それまでで、偉大な霊媒は、ヤマト族の卑弥呼、イザナミ系の向津姫であり、崇神天皇は向津姫を最高神として祀りましたが、不吉な事が起こるので、クナト系の台与を最高神として台与の名を使わずに天照大神として、台与が祀ってあると想像する多度大社のクナトの地と同じ伊勢に祀ったのだと思います。
何故なら、優秀な霊媒が迷うのは変なことですし、天照大神が迷うのもあり得ない事です。
天照大神と伊勢
伊勢・尾張は三種の神器がありますから、縄文時代から伊勢は霊媒・祭祀の主要地だったかも知れません。絹織物の言葉で「イセ」は「細かく縫い縮める」という意味がありますから、「集約する」と翻訳し、伊勢志摩の「志摩」は「揣摩(しま)」に漢字変換して、「未知を推測する」=「霊媒」と翻訳し、伊勢志摩は「霊媒が集約された処」とも思えます。ちなみに、市杵島姫の市は市子(生霊・死霊の意中を述べる神子)だろうと思い、市は現在では物を交換する処ですが、昔は、霊の意識を入れ替えて話すという意味があったと思います。島は揣摩(霊媒)だと思います。
そして私は、天照大神は神武さんの祖母であろうと思います。イザナギ・イザナミはオナリ神で、近親結婚だと思います。故に不具な子と超優秀な霊媒が生まれ、蛭子(ヒルコ)と天照大神が生まれたのだと思います。卑弥呼とは別系統だと思います。伊勢に祀る時、実名ではなく天照大神とすれば、伊勢の大神とも取れるし、鹿児島の大神とも取れる都合があったかも知れません。
イザナギ・イザナミは蛭子と天照大神を生みましたが、その影と光の影の蛭子は自分の不平を主張せず、耐えて努力する良い子であった為、天照大神はその影を知っているからこそ、良い光になったと思います。そして蛭子のけなげな意思は日本の魂にも成っていると思います。ヒルコを祀る神社は、兵庫の西宮神社、鹿児島の大隅国二の宮の蛭児神社などあります。
市杵島姫
昔はイツキのシマと言っていました。[下記の客人神社の説明] イツキ(潔斎して意識を入れ神に仕える) しま(揣摩ー未知を推量する) 市子(生霊・死霊の意中を述べる神子) なので、 心身を浄め、生霊・死霊と波長を合わし、神霊の言葉を降ろし、未知を推量し、政(まつりごと)を導く神子(霊媒)。
下照姫
290年頃、台与の次代の霊媒
朝廷の直系ではなく、物部系であるから、後世、姫許曽の赤留姫と同神と作為して、物部系の印象を薄めた
陸耳御笠(丹波大己貴)と匹女(菊理姫・多紀理姫)の娘で葛城の太陽神であったが、宇摩志麻遲が軟禁状態であったから、名草戸畔亡き後の紀伊の霊媒として名草姫として任される(草の主は菊の異称)(ヘブライ秦系)
名草戸畔
畿内は出石系大綜麻杵命系が主要勢力になろうとした目論見が霊媒の優劣で失敗し、270年頃には饒速日命勢力が畿内の主要勢力になる。
そこで270年頃、出石系大綜麻杵命勢力の伊迦賀色許売と孝元天皇(スサノオ)の子とされる(作為)彦太忍信は紀国を狙い、名草戸畔を殺害し、名草戸畔の姉妹の山下影姫を娶り、紀国を執る。
大和中心は饒速日勢力から崇神(神武)勢力になりましたが、 紀国はスサノオ(孝元天皇)と縁があるという名目(作為)で出石系伊迦賀色許売とスサノオと武内宿禰色の強い地区となっていた。
その後390年頃、神功皇后勢力が畿内入りを狙うにあたって、出石系伊迦賀色許売後裔勢力と協力し、秦色の強い大市姫(250年頃)系統から崇神系統(300年頃)の勢力弱体化を計り、畿内を制圧する(390年頃)。
伊迦賀色許売は開化天皇(饒速日)との間にも崇神天皇(神武)を産んだとあるが作為であり、彦太忍信も孝元天皇(スサノオ)との間の子というのは作為と思う。
彦太忍信が名草戸畔を遣った270年頃は、神武が畿内に入る290年頃以前の事で、出石系伊迦賀色許売系後裔勢力は390年頃神功皇后勢力と協力して再び紀国を奪い取ったので、270年頃の名草戸畔殺害の所業を290年頃の神武の所業とし、祖先の罪を消したものと思います。
神武が紀南から入ったのは、神武の妃の吾平津姫の母は三島であり、三島は山祇であるから、紀南はたぶん山祇系であり紀南の協力を得るために河内から紀南へ入ったと思います。
途中、名草戸畔を遣った事に成っていますが、戦力が落ちているのに、紀南へ行く途中で、わざわざ名草戸畔を遣る動機がありません。
ましてや、名草戸畔は紀氏と思われ、饒速日勢力側であり、神武東征の水先案内をした紀氏珍彦もおり、なおさら神武が名草戸畔を遣る動機がありません。
どちらかというと饒速日や神武の陰になってしまった彦太忍信に動機があります。
因幡の白兎
AD230年頃、近江辺りはクナト系の葛城尾張連合や、秦系の徐福子孫と渡来系漢人等が住んでいたと思う。
中国の秦国から逃れ新羅辺りに移住した漢人が230年頃、遠戚の秦を頼って近江辺りまで来て住みましたが、先住のクナト系民(和邇氏など)に祖国秦の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許された。
後に天日矛と言われた。
その恩あって、後に秦系の少彦名が伊和大神の次の丹波大国主である大己貴の手助けをする。
出石の秦の事を表だって蔑み難いので、因幡の白兎とした。
八十枉津日神
魏が霊媒の事を鬼道と愚ろうしたのを知った後世の倭人が、八百万の中心の日神を愚ろうして付けた名前。
このように「他所の庭」の言う事が正しく思えるような人の事を、夏目漱石は「新しい物に飛びつき、100年の習慣を捨てる未練無き国民、想像力に欠ける国民」と言ったのだと思う。
丹生都姫
丹を生むのだから後付けの名であろう。爾保とは異なる。
天照の姉妹というのは天照の時代頃の天照の親族か子孫という意味合い。
豊後辺りに居て水銀鉱床に敏感な霊媒であり、神武の東征に同行し協力した。
大和では縄文時代は火の神、水神、土の神など自然神霊を奉っていたので、その水神の名を丹生都姫として祀った。
丹生都姫は神武の母の玉依姫の娘で、鵜草葺不合尊ではない異父(イザナギ系)の娘と思う。
アラハバキ 武甕槌󠄀の祖先 世襲足姫 奥津姫 大戸姫
クナト族で神はアラハバキ。アラは、霊験あらたかな(荒神と書いてアラ神)、ハバキは、はばかるほど畏れ慎む、畏れ慎むほど霊験あらたかな神、神をいたこが口寄せする文化。
脛は寒いからスコットランドの正装の様に脹脛を保温していたから、そこから後付けで脛の字を使ったのではないかと思う。
熊野神社
全国にある熊野神社は、東はクナト色の強い神社を熊野と改名し、西は熊襲や狗名色の強い神社を熊野と改名したものと思います。
熊野本宮の創立は崇神天皇の御代とされ、熊野権現は唐の天台山を飛び出され、日本国鎮西の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に、伊予国の石槌󠄀山に移り、六年経て、淡路の遊鶴羽の峯へ、更に六年過ぎて、紀伊国牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松木のもとに移られたという。それから五十七年後に、熊野新宮の南にある神蔵峯に降りられ、六十一年を経て、新宮の東にある阿須賀社の北、石淵の谷に移り、結速玉と家津御子の二字の社に祀られた。とありますから、作り話の神話の様に思います。
熊野家津御子は食を治める御子です。(大宜都姫の宜(け)=御膳(みけ)の(け)で食物の総称です。津=都で治める意です。
崇神天皇の御代に、命を生み出す霊妙な力を持った熊野夫須美大神はイザナミとされ、勢いのある熊野速玉大神はイザナギとされ、食糧の神とされる熊野家津御子大神はスサノオと改名されたのだと思います。
しかし、本来の神は、熊野夫須美大神はアラハバキ、熊野速玉大神はクナト大神、熊野家津御子大神は火を使って料理をするので大戸比売(澳津比売・かまど神)だと思います。
三神を三宝荒神と言ったと思います。(荒は霊験あらたかな)
山形の熊野大社の本殿裏に、うさぎが三羽隠し彫りされています。
兎を三羽見つけた人は「願いが叶う」「幸せになる」と言い伝えられています。
これは隠し意味だと思います。
「兎に祭文」と言って、「兎に神仏に対する祈願や祝詞を言っても解からない」という意味です。
わざわざ「叶わない意味を持つ」ものを三神の代わりに三羽の兎で隠し彫りするでしょうか。
熊野大社の元の神はイザナミ・イザナギ・スサノオの三神ではないから、アラハバキ・クナト・大戸比売を胸の内に思い祈願しないと叶わないという意味だと思います。
だからホツマツタエで筑波山にイザナミ・イザナギが居るというようなことになってしまったのです。
だから筑波男大神はクナト大神、筑波女大神はアラハバキ神だと思います。
饒速日と伊須気依姫
イスケヨリヒメは大久米の刺青を見て驚いたので九州ではなく大和の民
イスケヨリヒメは神武(崇神天皇)の嫁(服従の証し)だから九州でなく大和の民なので、服従の証の父の饒速日も大和の民。九州の同族だったら服従の証にならない。
饒速日の妻が市杵島姫なので、東遷したという発想がでる。
大物主(饒速日)は崇神(神武)にとって祟り神だから大和の民。
饒速日も伊須気依姫も東遷したのではない。
饒速日は長脛彦の妹の鳥見夜姫・三炊屋姫と結婚していたが、市杵島姫と結婚して大和の王になったので、長脛彦と上手く行かなくなった。
火明命
火明命が誰だか分からないけど、火明命はハワイの火の女神ペレの流れの発想かもしれない。
日の神から太陽の欠片の火の神を産み噴出という発想と思われる。
ハワイの瓢箪楽器でイプヘケのチャントで火の女神ペレに地震を治めてと話架けたかもしれない。
瓢箪や鯰が地震に関係するのもハワイが関係しているかもしれない。
ハワイはふんどしも着けるしホラ貝も吹く。
サンベはアイヌで心臓のこと、三瓶山は血を噴き出す山でもあり、火の神の山でもある。
客人神社
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のこと。
ヘブライ系秦のエジプト・ケルト民族等を客人と言ったと思う。
九州では古くから居たので客人ではない。
出雲、広島、松山辺りはヘブライ系秦民族と海人のヤマト民族のハーフが沢山居たと思う。
見慣れないので客人。
白日別とは新羅の分国と言われるがそうではなく、白人族という意味。
伯家神道は秦系が元の神道と思う。 白川=白皮=白人
海老山の麓に湯蓋道空夫婦住み、厳島大明神を崇敬し奉り、ある時、市杵島沖に蓬莱浮く(蜃気楼)、金波の中を船で進み砂金を汲み入れる蓬莱を見ると、屋の傍に温湯湧き出し、富貴なり塩浜の長者となり、道空深く感激し、厳島明神の霊験だと、敬神の念いや厚く、客人社壇を再興し、市杵の島の大神を勧請し、厳島神社の摂社として塩竈の神を相殿に猿田の彦を神祀る。(市杵島姫は竜王系の日霊女と秦系の猿田彦の子であると思うから、黄人と白人のハーフ)
客人社壇に市杵島姫だから、市杵島姫は客人さんと認識されていたと思われます。
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のことだと思えるので、白人とのハーフではないかとおもわれ、その関係で猿田の彦を祭神にしていることから、猿田の彦も市杵島姫と同族と思われ、鼻の高い白人とのハーフと思えます。
“市杵の島の大神” とか “猿田の彦を神祀る” という書き方から
島=揣摩(しま)=未知が見える=未知が見える巫女
彦=王という意味で部族の王という意味と思われる。
市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味。(意識を交換する→今は物を交換する)
この様に古代の言葉と現代の言葉は変わってきていると思います。 例えば剣の数え方は一本二本ではなく、一握り二握りで数え、十握剣=十本の剣という意味と思える。
酒船石
沙化船石。 沙=良いものと悪いものをえり分ける、 化=かえる、 船=器
砂などのゴミを濾して、木管等の水路を切り替えるバルブ装置。
だから水量の多い水路は沙化船(器)が大きい。
以前は火の神が最上位であったが、7世紀ころには水の神が称えられたのだろう。
河童と胡瓜と祇園祭と少彦名と埴安彦
胡瓜はメソポタミア原産でシルクロードから6世紀頃日本に入ってきたと言われている。が、それ以前にヘブライ系秦が日本に持ち込んだかもしれない。
薬だったかもしれない。
胡瓜は、八坂神社の木瓜紋や、祇園祭で胡瓜を食べないなど、秦にも関係する。
河童は河伯からきているらしく、河伯は河の神であり、古代中国の秦国の九千坊のことを河伯と言う。
だから、河童と河伯を混同し、秦と関係している。
素戔嗚は更に後世で朝廷の作為により祇園祭の祭神にされたのであって、祇園祭は少彦名が祭神と思われる。祇園祭の祭神は胡瓜が薬とすれば薬に関係する少彦名が有力と思う。
黄幡社で埴安彦を祭神として祀るところあり、黄幡社も薬に関係し少彦名と関係があると思う。
河童は、治水工事や山津波を抑える人柱で、生贄として捧げた子供が苦しんだ姿の霊を見た人の印象だと思います。
河童の概念の大元は、メソポタミア原産の胡瓜や頭髪を丸く剃ることからヨーロッパかもしれないと考えたりするが、生贄にする時、子供の頭髪を丸く剃り、平たい石を背負わせて沈めたかもしれない。
生贄の供養塔が無いので当初は河童ではなく、神の河伯として祀ったかも知れない。
封じ
神武の兄の三毛入野命は豊後で猿田彦後裔の鬼八を遣り、鬼八の妻の鵜目姫を娶り高千穂へ入る。
そして亥の子祭りで鬼八封じをする。
亥の子祭は亥の子という石を地面に突いて、その窪みに御幣を入れる。
「いーのこ 亥の子 亥の子餅 つかんもな 鬼産め 邪産め 角んはえた子うめ」と唄いながらする。
封じとは、祟り封じであり御魂が動けないように封じることです。
御魂自身が動けないと思い込む、御魂の周りに障害を置き動けなくするなど、そのような思考で行うまじない呪術です。
催眠術の様に「動けない」、「寒い」、「足が無い」「見えない」など思い込ませることで封じてしまう。
宗教にはまって抜け出れないのも思い込みです。
封じが解けないように定期的に祭りなどで「叩かれ、切られ、押し込められ」を受けることにより、思い込みが解けず封じが持続する。
大きな石が上に載っていると思うだけで動けない。
など、思い込みの世界です。
思いを替えるだけですぐに抜け出るのですが、催眠を自分で解くことに気づかないのです。
徐福
徐福は九州で天御中主(BC660年ころ移入)とされた一族の秦(ヘブライ系)と会い、再び中国へ戻り、始皇帝へ秦(ヘブライ)と会ったことを報告する。
始皇帝も徐福もヘブライ系であり、 どの位の戦力で征服できるか見て来た徐福は、始皇帝に報告し、再度九州に上陸し秦国を建てる。
道祖神
近親相姦を防ぐ為に村境に置き、夜這いをするのは道祖神を越えてからせよの約束と思う。
かごめ唄
かごめ かごめ
籠目紋の伊勢や元伊勢の
籠の中の 鶏は
祀られているだけで、人形と変わらない大神たちは
いついつ出やる
いつ復活できるだろうか
夜明けの晩に
大和統一出来たのに、そのすぐ後に
鶴と亀がすべった
今まで築き上げてきた部族たちが騙された
後ろの正面誰
騙して大和を乗っ取ったのは誰(応神天皇)(後ろは神功皇后)
籠神社
籠神社は武振熊王の海部が奉斎する前は忍熊王の祖の系統で丹波大己貴と多紀理姫(結婚して菊理姫と言われる)の系統と思う。
これ以前の豊受大神は、クナト系興津姫(大戸比売)であったが、その後多紀理姫(天照大神と猿田彦の子)、その後、武振熊王の海部により宝満の玉依姫が豊受大神となる。(神武の時代の玉依姫とは違う)
崇神が祟られたとした対象を、匹女として討伐した多紀理姫(菊理姫)と思ったか、またはそれ以前のクナト系の澳津姫(大戸比売)と思ったのだろう。
元伊勢まで豊受大神として迎えに行ったのは、この多紀理姫(菊理姫)と澳津姫(大戸比売)を迎えに行ったと思う。
豊受大神が豊穣の神とされるようになったのは、畿内には四季があるので、稲などの種を撒く時期や収穫の時期などの暦の知識をもたらしたからではないだろうか。
メソポタミアのシュメール人たちは、木、火、土、金、水が日(陽)と月(陰)の影響を受けているのを実践的な観察と科学的な理解と霊的な解釈を融合した知識を持っていたようです。それが海路で九州に入り、若狭に入ったのではないだろうか。
宇摩志麻遲命 志麻=揣摩(未知を推量する)
十種神宝(催眠の法具)と深く関係、十種の神宝は母の多紀理姫(猿田彦の家系の秦)から受け継ぐ。
宇摩志麻遲は饒速日と三炊屋姫との子となっているが、十種神宝に催眠術も入っているとすると、催眠術はヘブライからきたのではないかと想像したら、三炊屋姫は葛城の国つ神の巫女であると思うので、宇摩志摩遲は猿田彦の流れを汲む多紀理姫の子であろうと思う。多紀理姫は丹波大己貴の后になった事で菊理姫と言われ、丹波大己貴と菊理姫は大和朝廷に従わなかった事で大江山の鬼の陸耳御笠と匹女と言われ、菊理姫は味美古墳群の白山神社古墳の地まで逃げたのであろう。
宇摩志麻遲は男なのに霊媒気質で争いを嫌い避けるから討たれなかったのだろう。
戦いが怖いのではなく競い合う人間に絶望していて拘りたくなかったのだろう。
神武東征後は、神に仕える祭主であったことを受けて、天皇の為に十種の神宝を用いて鎮魂の法を奉斎していた。
それ故に軟禁状態であり、亡くなった為、宇摩志麻遲の縁者が母の白山神社古墳と石見の物部神社裏山にに祀ったのだろう。饒速日と三炊屋姫の子であるなら奈良白庭に葬られたであろう。
鳥は魂を運ぶことから、宇摩志麻遲の魂が鶴に乗って石見に舞い降りたと感じたのだろう。
物部神社の裏山の宇摩志摩遲の墓と鳥見白庭山の饒速日の墓の形態が全く同じです。
伝承は作為で歪められますが、物証は歪められていない可能性が高いと思います。
物部神社の神紋は“日負鶴”であり、丹波国多紀郡波々伯部の波々伯部神社の神紋は“対鶴”です。
饒速日は墓の形態や鶴の神紋から波々伯部に縁があるのではないでしょうか?
波々伯部神社の祭神はスサノオです。
スサノオの髭はケルトのDNAだと思います。
青森のキリストの墓はケルトの墓だと思います。
縄文人とケルトが融合してクナト族として広がったのだと思います。
饒速日が機内の王になれたのは、スサノオ(男王)と台与(卑弥呼死後の男王の混乱後の女王)との子だからだと思います。
丹波大己貴と饒速日は兄弟か同一人物かも知れない。
阿波の違和感
弥生時代~古墳時代は霊媒による託宣によって、“まつりごと”が行われていたと思います。邪馬台国は30もの国が卑弥呼を共立して出来た国です。
その30もの国が収まる土地は尾張~九州までの広大な土地だと思います。
各国には優秀な霊媒が居て、その託宣によって王が国を治めていましたが、卑弥呼という超優秀な霊媒の力には誰もが平伏する状態だったので、30もの豪族を一つにまとめることができました。そして卑弥呼は各豪族を納得さすために各豪族の祭祀を融合して祭祀を行ったと思います。円墳や方墳を融合して前方後円墳も、これ以降から作られるようになったと思います。
卑弥呼の部族の王は大国主となりましたが、それは機内や尾張の大部族の不満でもあったと思います。卑弥呼の死後、偉そうにしていると思われていた大国主は失脚したと思います。
それが、スサノオの出雲侵攻だと思います。
そしてスサノオが男王となりましたが、また他部族から不満が続出して、台与が女王となりました。
これほど古代は、神の言葉が最重要な時代だったと思います。
そして台与の血筋の饒速日が男王になり、そのころ神武が東征したのだと思います。
饒速日は邪馬台国の最後の王なので大国主とか大物主とも言われました。
その後、各部族の神の障りを鎮めるために、阿波が選ばれたと思います。
罪・穢れは、瀬津比賣という瀬が大海原に持ち出し、速開都比賣という渦潮が呑み込み、気吹戸主という門番が黄泉の国へ誘い、速佐須良比賣という神に見守られながら彷徨い続けて、泡と消えて行くのだと思います。
その気吹戸主と速佐須良比賣のところを阿波忌部が担ったのだと思います。
淡路島から阿波に入ると在るのが大麻比古神社です。祭神の大麻比古大神とは阿波の忌部氏の祖先の神様です。
大麻比古神社は阿波国と淡路国の総産土神として崇敬されています。
忌部氏は奈良県橿原市忌部町を本貫として、出雲忌部、紀伊忌部、阿波忌部、讃岐忌部があります。
忌部氏は朝廷における祭祀を担った氏族であり、また阿波忌部氏は朝廷に麻や木綿を収める品部でもありました。
忌部氏は、各部族の神が荒魂にならないように分魂をして、その祭祀を受け持っていたのではないでしょうか。
阿波に居た神々が各地に移住して、別々の部族に成ったというのはしっくりきません。
大祓詞の訳
高天原でイザナギ、イザナミが八百万の神達を集めて話し合い
瓊瓊杵尊に国を平和に治めてくれと、ゆだねられ
荒ぶる住民に神の威厳をもって言い聞かせ、
高天原から荘厳に降りて来られた
国を統一して、高天原に届くほどの立派な御殿を建て
天の神、日の神の御蔭と、自分だけの力ではないと、
平和に治めていく中で
人が増えてくると、神への無礼、破壊、殺傷、人道の罪など色々出て来たので
神業をして神を封じた首枷を除き、穢れを祓い、祝詞を奏上すれば
天つ神はお出ましになり、また御治めになる
国つ神は山々に籠る悪念を打ち下して御治めになる
罪はなくなり清められた。
万人の考えは様々であって
級長戸辺(風の神人)も想いである厚い雲を吹き放つ様に、
様々な想いである霧を晴らすように、大船が大海に出る様に一つの国に成るために
従わない者を草薙剣で討払い、統一したのであって
天下統一の為、誰かがしないといけない事であって、やむを得なく、悪徳では無いよ
亡くなった御魂は、瀬の神が海まで運び、
死国の入り口である鳴門の渦の様な神が呑み込み
根の国の門番が受け入れる
そこには速佐須良比売がいて
そこに長い間居ると、身を寄せるところがなく彷徨い
いつのまにか見当たらなくなる(阿波となり蒸発して無くなる)
そして罪もなくなる
祓ひ清められ、神の国だと御治めになられた。
(阿波の入り口の淡路島、阿波に左遷された者は世間から忘れられて泡となり蒸発して無くなる、死国・黄泉国)
近代史の背理をひとつだけ
キリシタン禁止令から浦上四番崩れの不本意
1570年頃には、宣教師とキリシタン大名が火薬一樽と50人の娘を交換し、ヨーロッパで数万人の日本女性が裸にされ奴隷ビジネスが行われていた。
1609年マカオで朱印船の船員60人が、ポルトガルの船員に殺害されたので、有馬晴信が幕府の許可を得て長崎に寄港したポルトガル船に報復。
その手柄に対して、岡本大八が、嘘なのだけれど有馬晴信に「家康が領地を返還してくれそうだから家康に願うのにお金が必要」と要求したので、有馬晴信は6000両を岡本大八に渡したが、岡本大八がお金をイエズス会へ渡したのが家康に判り、又、有馬晴信と岡本大八は共にキリシタンであり、イエズス会やドミニコ会が裏で動いていたり、家康の近辺にも多数のキリシタンが居り、キリシタン大名は宣教師と組んで寺社の破壊や僧侶や仏教徒への迫害等したので、1612年江戸幕府によるキリシタン禁止令が出される。
初め宣教師は火あぶり、つるし首で多数処刑されたが、後に穏やかに改宗させる策に転じた。
それは1646年から1792年まで宣教師の改宗の為、7700坪に及ぶ切支丹屋敷が存在し、10人中5人が80歳前後まで生きていた。
1637年過酷な年貢と年貢を納められなかった妊婦を代官が冷たい川の中に入れ、母子ともに死なせてしまったことなどから、 浪人崩れの農民たちの一揆に、ポルトガルの後ろ盾を期待したキリシタンも加わり、神の使いという天草四郎の下に島原の乱勃発。
浦上四番崩れ
1865年、宣教師が日本語で天主堂と表示した大浦天主堂を建て、隠れキリシタンを誘い出す。
キリシタンはこれからはキリスト教式の葬儀をしますと庄屋に宣言する。
1867年、幕府のキリシタン名簿によりキリシタンは捕らえられていく。
拷問ではなく説得による改宗をするべきと試みたが、敵わず、徐々に拷問を加えて改宗を求めた。
改宗者には自由が与えられた。
幕府が名簿を持って黙認している中、宣教師はキリシタンが禁を破れば獄門になるのを知っておりながらも信仰の自由を更に強く善として教化したと思えます。
もし宣教師の子供が隠れキリシタンであれば、表面立たせない様に努めたはずです。
しかし、信仰心の証をマリア様に立てなければ心が折れているのと同じ、と教えられたであろう隠れキリシタンは、隠れたままでいることがマリア様に対して申し訳ない様に感じたと思えます。
その心は幕府への怒りとなり、これからはキリスト教式の葬儀をしますと宣言することになり、海外貿易を必要としていた幕府も弾圧せざる負えなくなったと想像できます。
死者が出るのが必然の状態で、市民の力を利用して幕府に対抗しようとする宣教師の行為は、聖職者の論理ではなく、テロや侵略者の論理と同じです。
指導者と政府の間で、いつも市民だけが犠牲になります。
宣教師によるキリスト教化は、有色人種国の植民地化計画の一環であり、日本人を奴隷ビジネスに使った事実が、キリスト教会は人種差別意識があった証であり、他の植民地同様日本にも攻め入る意志を持っていたと証に成ります。
日本人が仏教や儒教、神道を信じるのも信仰の自由であるのに、キリスト教徒の教則においては、他の神を信じてはならぬである。更に寺社の破壊等をしておいて、信仰の自由を唱える宣教師の論理が壊れていることが証明されます。
信仰の自由が許されなければ法に逆らい、敵わなければ死を選ぶと言うのは、正に敵対者を威嚇するテロリズムと同じ論理であり、和の精神が無く、黙認していた当時としては法を犯す者を弾圧せざる負えない状況に成りました。
その様な状況でありながら、法を犯しても説諭によって改宗させるべきと提案した役人でしたが、隠れキリシタンはマリア様に信仰の証を立てなければ、あの世に行っても地獄が有るのみと信じており、 尚且つ、役人の使命はキリシタンに「イエスは嫌いだ」と言わす事であり、海外貿易が必要な役人は言ってくれれば弾圧をしなくて済むから「嫌いだ」と言ってほしいという内心があり、キリシタンはそれを知っていながら、一切の妥協も無しに拒否し続ける行為は、役人は足元を見られていると感じ、一方温情を無にするキリシタンの心は、他の神民と和する気持ちが無く、相手の心を気に掛けない己が保身に尽きると言えます。
説諭で解こうとした役人と、信仰の証を立てること以外ない隠れキリシタン。
役人の「イエスは嫌いだと言ってくれ」という気持ち。
キリシタンの「たとえ死んでも、役人には神罰が下され、キリシタンには天国がある」という気持ち。
役人は極悪非道。
キリシタンは心が綺麗で弱者。
キリシタンは他の神民の温情に応じようとはせず、諸外国の後ろ盾と、武器を使わないキリシタンに手が出しにくいことを盾に、その威圧を持って一方的に遂げさそうとする脅しを、役人は感じたと思います。
その様な威圧は、無理強いさせるために拒否できない強制力と支配欲が隠れていると見えます。
その強制力が役人を極悪非道に追い込んだと思えます。
バックに主人を置いて強気になっている小型犬が、大型犬に歯向かっていったら、たとえ優しい大型犬でも身を守るために瞬時に噛み殺す行動をとってしまったのは、小型犬の間違った自信です。
津和野での弾圧の期間、近くに住む森鴎外は6歳から9歳でしたが、生涯全く発言しなかったと言います。
もしキリシタン擁護の気持ちがあるなら、諸外国と同じように、今後の日本の為に必ず、役人の極悪非道を二度としてはいけないと説いたはずです。
「二度としてはいけない」も言わなかったという事は、キリシタン擁護ではなく、役人の気持ちを知っていたけれど、一方的にキリシタンの論理を認めさるための行動に和の論理が無いことを発言すれば、国内外から反発されるのが分っているから、全く発言しなかったと思えます。